三遊亭小遊三師匠インタビュー拡大版/オープンキャンパス号特別企画
明大スポーツ第557号(オープンキャンパス号)1面にて、落語家の三遊亭小遊三師匠(昭44営卒)を特集しました。ここでは紙面に入りきらなかった小遊三師匠のお言葉を掲載しております。8月1日発行の紙面と併せてぜひご覧ください。
――山梨県のご出身で、大学進学を機に上京されたのですか。
「大月から1時間半かけて電車で来ていました」
――当時の明大の雰囲気はいかがでしたか。
「やはりあの飾り気がなくて素朴でというイメージは、その通りだったのですね。女子生徒もあんまりいなくてっていう。経営学部だったのだけど、600人ぐらいいて、女子は5人いたかいないかで、確か見かけなかったですしね」
――明大でのご縁を感じることはありますか。
「しょっちゅうですね。OB会の案内は来るし、寄付の紙は来るし(笑)」
――落語研究会に入ろうとは思われなかったのですか。
「全く。卓球していたら他にすることもないし、夢中でやっていたんです。授業の単位の方は、授業も和泉だったし練習場も和泉校舎だから、サボらないわけですよ。うちにいてもしょうがないから授業だけは出て、内容はわかんないけど、出席だけあれば良かったです。3年になるときに学園紛争で学校が全部バリケードで巡らされて、ヘルメット被った学生が歩き回っていました。授業もないししょうがないから、定期券使って新宿まで行って毎日うろうろしていましたね」
――落語に出会われたきっかけを教えてください。
「練習なし、授業なしになって、新宿うろうろしているうちに末広亭にぶち当たって。小学生の頃、落語やっていて、友達がやるので一緒になって覚えて、お誕生会とかなんかの時に小学生の頃にやっていました。姉が落語好きで、いい暇つぶしになっちゃって(笑)。お金がなくて、公開録音とか公開録画とかはがきで申し込んでいました。それで就職はどうするんだってなって、面倒くさいから落語家にでもなるかって(笑)。4年になる時に今の師匠(三代目三遊亭遊三師匠)と巡り合って話しつけて、(落語家になるには)卒業証書と引き換えだよって言われて。そうすれば諦めると思ったのか師匠が、誰か連れといでっていうね。家は飛び出したしどうしようかなと思ったんだけど、その身元引き受け人とか保証人みたいなのを姉に任せてね。したら師匠と姉が話して、1年経ってからうちとてんびんに掛けることができるでしょう、ということでね。出入り自由にさして、カバン持ちでもなんでもいい、教えることは教えてあげますと。その代わり正式入門というか、前座で修行に出すにはあと1年、卒業証書持ってきなさいと。卒業証書と引き換えに名前をあげるからって。それで武道館行ったら名前呼ばれて、そこで卒業できたことを知りましたね。それ持って行って大威張りしたよね(笑)」
――落語は全て頭に入っていらっしゃるのですか。
「もうそれは入っていますよ。師匠に対面で教えてもらってそれを暗記して」
――いくつぐらい覚えていらっしゃいますか。
「稽古したのは100ぐらい。前座の頃、おばあちゃんが出てくるような話は、自分がおばあちゃん(役を)できないからそういうのをやらなくなって、自然にやらなくなったね。また年を取ってからそういうのをほじくり返してやる人もいるけど、そんな面倒くさいことしていないし。本当はやらなきゃいけないんだけど、ネタはもう先代たちが残してくれたやつが何千とあるからね。それを今の人に分かるようにやって受ければいいわけです。ネタはあるんだけど、なかなかできないね。昔の人はすごいよ。死んだ先代師匠の本を読んだら、戦争中も空襲が始まっている頃の昭和19年に、毎日3から4件掛け持ちしていた。空襲警報が鳴ると寄席もやらないのだけれど、空襲警報が鳴らない限りはやっていたって言うのだよ。そういう人たちが昭和の名人と言われた。そこへ僕らは前座で入ったのだけどね。だからそっちの世界を夢見て入ったので、今とは全然違いますね。覚えているのは、その昔の師匠たちの強烈な、言ってみれば実力だよね。それをまあ夢に描いて入ったのだけど、なかなかできない」
――公演の際、どのような工夫をされていらっしゃるのですか。
「工夫っていうか、若い時はね、師匠に元気を買ってもらおうという。今もその癖は抜けないのだけど、今は元気がなくなっちゃった」
――学生時代に戻れるとしたら、やりたいことはございますか。もう少し勉強しておくとしたら、具体的にどのような勉強をされたいですか。
「どうも学業的なことはダメなので、実践的な英会話とか。埼玉の小学生だか中学生がやっていたけど、埼玉って日本一なんだってね。難しい単語でも出てきちゃって会話ができるのだから」
――今でも舞台に立たれる時は緊張されたりしますか。緊張のほぐし方などもあれば教えてください。
「少しぐらい天狗になっている時の方がいいんじゃないかね。怖いもの知らずで、怖がったらキリがないから。もう怖がるとビビっちゃうんだね。いまだにビビりますよ。どうしようかなとかってね。ネタは決まってないんだよね。今日は『時そば』やろうかなと思っても、前の人が『時そば』やっちゃったらできないから、だから決められない。前の人が落語に入るまでね。その場でAにしようかBにしようかCにしようかっていろいろ考えながら、それでAに入ったらBの方が良かったなって。その決断をするのにやはりかなりプレッシャーがかかるね。ネタを決める落語会もあるのだけど、この話をやってくださいとかやりましょうとかっていう。プログラムもあるからずいぶん前に言われちゃうじゃん。その当日になって、その話やる気がなくなっちゃうことがあるから、良し悪しでね。寄席形式と落語会形式と2つあるのだけど、いずれにしても気持ちがちゃんとしてないとなかなかうまくいかない」
――はなし家として人前でお話される機会が多いと思いますが、うまく話す方法やお客さんに聞いてもらう秘訣などはございますか。
「やっぱり自分が本当に思っていることを楽しく喋れるのはコツだろうね。なかなかできないでしょ。でもね、だいたい本当のことが言えないしね。気分によって楽しくないことがあれば、乗らない時もあれば、いろいろあるからね」
――笑点の最初の自己紹介などで時事ネタや政治のネタを使われることがありますが、そうした情報は日常的に収集されているのですか。
「そんな大それたもんじゃないけど。一応収録は決まっているからね。その前に頭で何言おうかなとかって、あれもだらだら喋っているわけにはいかないじゃないですか。ポンポンとね、気持ちよくまとまってないと。間違えたりするとぐちゃぐちゃになったり、なかなかやはり難しいものだと。あのアナウンサーの人とかね、大したものですよ。商売とはいいながら」
――卓球を始められたきっかけを教えてください。
「兄がやっていたので、家にラケットがあったからなんとなく親しみがあって」
――大学でも卓球を継続された理由はございますか。
「落語より好きだった。明治の一般部っていうのは、あまり束縛されないので十分にやらせてもらえる。一応、新人戦でベスト16に入っているんだよ。新人というのは学年じゃなくて成績で決まるもので、2年生の時に出てベスト16、これが最高の成績かな」
――卓球への魅力というのはどういうところでしょうか。
「勝負だからね。その面白さっていうのもあるよね。負ければ嫌だし、勝てば嬉しいって、単純。でも大学入って試合、リーグ戦の試合見ていて、すごいことやる人がいるんだなと。見ていて、美しいよね、強い人の卓球っていうのはね。それに憧れて真似だけするんだけど、なかなかできないんだ」
――地元の山梨県大月市で三遊亭小遊三杯を開催されたとお聞きしました。
「何回かやりましたけど、危ないので、クーラーも何にもないとこに200人も集まって。これちょっと大丈夫かよってことになって、まあケガのないうちに辞めちゃおうって」
――大会を開催されたきっかけはございましたか。
「高校の同級生が市長になったので、みんなで応援して。卓球部の後輩が大会をやろうと言うので、市長が元気なうちに」
――もうすぐ80歳を迎えられる中、お元気に講演などもされていらっしゃると思いますが、今後したいことは何かございますか。
「昼間眠い時に日向ぼっこして、猫を膝の上に乗っけて。猫はいないけど。一日休みの日があっても、あっという間に終わっちゃうんだよね、本当に。ご飯食べて、ちょっと軽く体操して、あそこの本どうなっていたかなとか、そんなものをちょこっと見ているうちに、もう昼過ぎだと。二日休まないと休みって感じがしなくなっちゃって。そういう点で、これちょっと休みたいなっていう気はしてね。それは心臓に疾患が見つかったので。そのせいかもしれないけどね」
――いつまで現役を続けていきたいというお考えはありますか。
「もうすぐやめたいけど。だけどそれやめると、やっぱり本当になんか張りがなくなるだろうなとは思うのでね。そこも勇気がなかなかわかない。辞めるのだって勇気がいるからね。会社の方がいいよね、クビになっちゃうんでしょ。『あんた、いりませんよ』って言われたら諦めもつくじゃない」
――今と昔とで、笑点はどのように変化しましたか。
「つくっている人が変えているんでしょうけどね。ただ、少しずつは雰囲気が変わっていることは間違いないですよ。それは同じようにはできないですよ。同じようにやったからいいってモノでもないし」
――笑点が60周年、節目を迎えられたということで、おめでとうございます。
「私はそのうちの43年なんだけどね。一つの会社に勤めたみたいな、こんなこと夢にも思わなかったし、あり得るんだなと思っちゃって。でも、何がなんだかわかんない、無我夢中でやっている時の方が面白い。なんかいろいろ考えちゃうじゃない。『いない方がいいのかな』とか『ガラっとこう変わった方がいいのかしら』とか。それは向こうが考えることだから、余計なこと考えなくてもいいんだけど、そういう進退というのを考えるような。でもそれにしてもちょっと長すぎるよ。それで、43年前とやっていることは大して変わってない」
――笑点で思い出に残っていることはございますか。
「10枚座布団集めてパラオへ行ったのと、その当時では珍しいよね。あとは『2001年宇宙の旅』ということで、2001円の府中の足袋を買ってくれた(笑)。そんなこともあったね」
――落語という、あえて不安定でチャレンジングな道を選ばれたお気持ちやマインドについて教えていただけますか。
「やはり周りは気が違っちゃったと思っていたね。まだはなし家の中では、大学を出てはなし家になった人が少なかった。先輩でね、何人かはもちろんいましたけど、そんなにいなかったので、風当たりが強いというか、つまんないとこであの野郎生意気だなってすぐ言われそうな気がするじゃない。言われた記憶はないけど。だから履歴書には中退って書いといた。そのあと、卓球部の監督が『お前、とりあえず今一番何が欲しい』っていうから『本当のところお金が欲しい』って言って。真打披露する時にお金がかかるのでね。監督がそうしたんだと思うけど、顔も知らない、名前も知らない、会ったこともないような(明大の)先輩から現金書留で『真打昇進おめでとう。頑張れ』っていうのが届いたので、これ中退まずいなってなって。それから、真打をきっかけに『明治大学卓球部卒業』っていうふうに直したら、中退から明治大学卒業になって。当時は前座二つ目の頃だから、あまりそういうものは世間に出回ることはなかったけど、でも確かにそうだった」
――話が上手くなると人としても魅力的になると思うのですが、そのポイントやコツはございますか。
「僕はもう落語が元になっているから、全て落語から学んだことなので。私の師匠が見ているとしたら『お前、違うだろそれ』というところも多々あるとは思うんだけどね。でも、落語が元ですよ」
――ありがとうございました。
[聞き手:柏倉大輝、重見航輝、藤岡千佳]
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