(5)林陵平さんインタビュー拡大版➀/サッカーW杯特集号特別企画

2026.06.14

 6月11日にサッカーW杯号外を発行いたしました。本特集では、サッカー日本代表に選出された長友佑都選手(平21政経卒=現FC東京)と早川友基選手(令3営卒=現鹿島アントラーズ)の2人に加えて、解説者として人気を博す林陵平さん(平21営卒)を掲載。そのほかにも、W杯にまつわる多彩な企画を載せております。

 本記事は、紙面に載せ切れなかった林さんのインタビューのWEB拡大版となります。(この取材は5月26日に行われたものです)

――高校時代は東京ヴェルディのユースからプロ入りせず明大へ進学されましたが、当時を振り返っていかがですか。
 「夏ぐらいに大学を含め翌年のことが決まるという時に、当時のユースのコーチが明治のコーチもやっていてつながりもあったので、明治でやりたいな、大学に行きたいなと思っていました。明治もすごく強くなっている途中で、チャンスがあるなら明治行きたいなと。大学としても素晴らしい大学だったので明治を選びました」

――サッカーだけではなく、勉強面なども含めて大学進学を選ばれたのでしょうか。
 「日本ってやはり大学(に行くという)のもあるし、大学生活もしてみたいなと思っていました。勉強もそうだし、私生活の部分を含めて、4年間通ってからプロ選手になるのもいいのかなと思って大学を選びました」

――当時の大学サッカーのレベルはいかがでしたか。
 「俺が1年生の時は、明治のグランドも土で、(関東大学リーグ戦で)2部から1部に上がった年ではありましたが、大変な時期でした。どんどん強くなっていくのを1年生の時はすごく感じたし、3年生の時は優勝もして、その頃から本当に強くなったと思います。」

――当時の明大はどのようなチームでしたか。
 「厳しかったです明治は。もちろん1年生から4年生の上下関係もそうだし、4年間寮に住んでいたので寮生活や食事の面もそうでした。挨拶なども含めていろいろしっかりしていたからこそ、サッカーの方でも結果がついてきたのかなという感じはします」

――当時の寮生活はいかがでしたか。
 「めちゃめちゃ汚かったです。8人部屋で4年間生活したのでもう今はどこでも住めます。あそこはとんでもないです」

――寮生活で印象に残っている思い出を教えてください。
 「二段ベッドの上でずっと生活していました。寮には1号部屋、2号部屋、3号部屋とあって、8人部屋、8人部屋、8人部屋、16人部屋で廊下や洗濯物干しがありました。全員男で上下関係もあったり、1年生の時は朝起きて先輩を起こしたり、夜はトイレの掃除をしたりといろいろ厳しかったけど、厳しさの中に楽しさもあってすごくいい4年間でした。あそこで自分の人生の基盤を作ったと言っても過言ではないので、その4年間がなければ今の自分はないかなと思います」

――当時も朝練はありましたか。
 「朝練は6時からありました。1年生の時は5時くらいに起きて朝、雨の日でも泥まみれになりながら土のグラウンドにラインを引いていました」

――2年生で人工芝になってからはいかがでしたか。
 「感動もしたけど、後輩はせこいなと思いました。俺らは土で練習していたのに、みたいな。人工芝はもともと線が引いてあるから線を引く必要もないですし。そういう意味では環境が変わっていったと思います」

――大学生活の思い出はありますか。
 「サッカーしかしてこなかったからね。(練習を)朝6時にやるので1限に間に合うように授業出てとか、クラスの仲間には本当に助けてもらっていました。やはり勉強面ではどうしても遅れをとるので大変でしたが、クラスが仲良くなって、すごく助けてもらいました」

――同学年の長友佑都選手(平21政経卒=現FC東京)の第一印象についてはいかがですか。
 「ただの坊主だね。ただの坊主というか、普通に同じ学年のチームメイトです。あいつはスポーツ推薦じゃないし、指定校推薦だから。同学年が20人いた中、みんなでがんばっていこうという感じでした」

――指定校推薦で一般生だと少し入部が遅くなると思いますが、その中でも当時から今のようなキャラだったのでしょうか。
 「キャラは当時から強かったです。1年生からあいつも試合出ていたわけじゃないし、元々は応援の太鼓役をやっていたから、今みたいなイメージは全然できないです」

――長友選手と一緒にプレーする中で、特に優れていたところを教えてください。
 「あの時から人と違っていたのはやはりスピードとスタミナ。スピードも誰よりも速かったし、特に明大ではとても走るトレーニングをしましたが、その走りでも1人だけ息を切らしていなかったです。彼だけフィジカルが特出していました」

――他の人よりも練習量が多かったのでしょうか。
 「練習量は1年生の時はふざけていて、全然トレーニングしていなかったです。トレーニングちょっとサボって違うことしていたりとか。でも1年生の後半くらいから意識が変わったと思います」

――長友選手のメンタリティーについてはいかがですか。
 「パッションがすごかった。でもメンタリティーも元々あって、そのメンタリティーに加え、さまざまな国やクラブでプレーする中ですごく変わっていったと思います。でもメンタルはちょっとバケモノ。強いです」

――大学卒業後、東京ヴェルディに加入することが決まりました。当時の心境を教えてください。
 「何十年前の話だよって感じだけど、でもうれしかったです。元々ヴェルディで育って、大学4年間はプロのために生活してきて、朝練して、ちょっと寝て、また筋トレして、授業も行って、また筋トレして、みたいな感じで大学4年間はプロになるための生活をしてきたので。その4年間の自分の夢がかなったっていう思いがすごく強かったです」

――プロ1年目を迎えるにあたり、手応えや自信はありましたか。
 「自信がなかったらプロにならないしね。活躍してやろうっていう思いではありました」

――プロ1年目はチームの経営難もありましたが、振り返っていかがですか。
 「見返してやろうとは思わないけど、でも(柏)レイソルといういいクラブからオファーもいただいていたので、経営難は残念な部分もありましたが、また新たなチームでプレーできるっていう楽しみの方が大きかったです」

――さまざまなクラブでプレーされましたが、環境の変化についてはいかがでしたか。
 「自分がもともと大学で培った4年間があったからどこへ行ってもプレーできると思っていたし、寮の二段ベッドで4年間住んでいるからどこに行っても大丈夫だと思っていたので、その環境の変化も逆に楽しみたいなと思って、緊張感とかもなくすごく楽しみに移籍しました」

――大学時代の厳しい環境は、プロ生活にも生きたと感じますか。
 「本当にさっきも言ったように大学4年間がなければ今の自分はないと思います。明治での4年間は自分の人生の基盤になっているから、すごくいい4年間だったなというのは明スポにも話しているんですよ(笑)」

――現役引退後の2021年から東大ア式蹴球部の監督を務められました。就任の経緯を教えてください。
 「2020年に引退するときにはまだ何も決まっていなかったのですが、自分はずっとサッカーをしてきてサッカーが大好きだっていうのを公言していたのでサッカーの話があるだろうと思っていました。そしたら最後の京都(サンガF.C)戦が自分の引退試合というか最後の試合があって、その前日に東大の学生からの電話で、『来年東大の監督してくれませんか』っていう話をもらいました」

――急なオファーでしたが、すぐに決断されたのでしょうか。
 「いや、すぐにはしないですね。次の日試合だったので。でも考えて東京大学に自分が通うことはないだろうなと思って。あの赤門くぐれるのかっていうのと東大がどのぐらいのサッカーのレベルかも知らなくて、ちょっと調べた上で監督っていうのはなかなか引退してからすぐできないし、そういう意味ではチャレンジしてみようと思いました」

――東大の選手たちには、最初どのような印象を持たれましたか。
 「東大生は頭がいい学生だからこそ、サッカーに対しての熱量がどれほどあるのかなっていう部分は気になりましたが、すごくみんな気合入っていたしいい意味で驚いたというか、すごく熱量があるなっていうのは感じました」

――東大生は勉強との両立が求められる中で、どのようなことを大切に指導されてきましたか。
 「もちろんサッカーのことは大事ですけど、大学生って学生なのでやはり基礎になる挨拶とか遅刻しないとか、そういう当たり前のこと、日常生活のことはすごくしっかりさせました。それが結局、彼らって別にプロになるわけではなくて、大学4年間でサッカーしながら大学を卒業した後に活躍する人材だと思うので、もちろんサッカーのところも伝えましたが、そこの挨拶などの基本的な部分はやはり彼らにサッカーよりもまず大事にしてほしいっていうところは伝えました」

――戦術面についてはどのような指導をされましたか。
 「戦術面もめちゃめちゃ鍛えられました。それが自分の今の解説につながっています。(東大は)頭で考えるから、誰がどこに立ってとか、噛み合わせがこうで、みたいな。監督がそこを知らないと話聞いてもらえないので自分も戦術的なところの勉強はしました」

――3年間の指導者をする中で、特にうれしかったことを教えてください。
「選手たちがピッチで戦って大事なゲームで勝ったときはすごくうれしかったし、(関東大学サッカーリーグ戦東京・神奈川で)2部優勝したこともうれしかったです。一試合一試合、もちろんゲームだけではなくて普段のトレーニングからしっかりやってるからこそゲームでみんなで喜べると思うんですけど、みんなで喜びを分かち合えるっていうのはすごくうれしかったです」

――逆に、3年間で難しかったことはありますか。
「東大生を相手にしていたから、やはり頭のいい学生なので、そこのマネジメントのところはすごく意識的にしました。ピッチに立てるのは11人しかいない中で当時サッカー部は50〜60人近くいたので、学生をまとめるっていうところは大変というか、いろいろ考えました」

後編に続きます。