(10)「大人」の決定、「早く大人になりたい」子供には朗報か

1999.01.01
(10)「大人」の決定、「早く大人になりたい」子供には朗報か
 第10回の担当は大塩拓也です。

 8月も中盤を迎え、世間の小中高生は楽しい夏休みを満喫していることだろう。この時期なら、まだ横に積み重なっている宿題のことになど気に留める必要もなく、手放しで遊ぶことができるはずだ。しかし、これが月末ともなるとそういうわけにもいかない。約1カ月遊び続けたツケが回って、目の前に積まれた宿題の山と格闘である。毎年、「今年こそは早めに終わらせてから遊ぼう」なんて意気込んではみるものの、同じことを繰り返してしまうものだ。そんな時、家に帰ってきても宿題がなく、ゆったり過ごしている大人たちに羨望の目を向けたことはなかっただろうか?「早く大人になりたい――」。子供の頃、私も例外なくそんな思いを抱いていたのを懐かしむ。

 そんな子供たちには朗報と言ってよいのだろうか、先日、法務省で明治以来20歳と定められてきた民法上の成年年齢を18歳に引き下げることが適当とする判断が下った。主な理由として「社会参加の時期を早めれば若年層の間で大人の自覚が高まり、日本社会にとって大きな活力をもたらす」、「若者が将来の国づくりの中心という国の決意を示すことにもなる」というのがあるらしい。しかしこの判断に対して、8割にも及ぶ否定的な世論にも押され、実際に引き下げる時期については決定が見送られることになった。世界を見回しても18歳を成人とするのはさほど驚くことではないが、引き下げに踏み切ることで生じる多くのリスクにも目を向ければ、この先の動きに慎重を期そうとするのもうなずける。

 だが、この判断には重要なものが抜け落ちている。ここまでにおいて、当事者である子供の側の意思は全く反映されていない。子供は「大人」の決定を甘んじて受け入れなければならないのだ。そんな判断が通れば、それまでは声も受け付けてもらえなかったものが、ただただ「大人」だからという理由だけで社会参加を求められる。その多くが18歳で迎える大学生も、もちろん「大人」の仲間入りだ。かといって、彼らが高校までの授業で教えてもらえることといえば、政治の仕組みなど基本的なものばかりで、社会のほんのひとかけらにしかすぎない。しかもそれには考えさせる意識につながるものはなく、ほとんどが目先のテストや受験で使う〝暗記モノ〟に甘んじているのが現状だ。その決して広いとは言えない知識の中での社会参加は、まだ「子供」の彼らには荷が重すぎないだろうか。それでも、参加しなければ「大人」からのヤジが飛んでくるのが常である。多くの権限を預けることにより自己決定権は増大するかもしれないが、そこには当然、自己責任も発生する。「大人」はそのことも踏まえた上で子供を正しい方向に導いてやらなければならない。権利だけを与えても、その中身にまで目を向けてやらないのは、「大人」の取る行動としては不十分と言えないだろうか。そのためにも子供の意思は、直接反映はされなくとも「大人」に影響を与える声になっていい。

 子供に対してこのような重要な役割を与えることになる大人たちも、度量が試される。これをきっかけに自分の中の大人像を今一度確認し、より大人になるために考えなければならない。その意味でも、この夏は大きな意味を持つものになる。「大人」になることは責任を押し付けられるのではなく、自由を広げてもらえることなのだと、子供に感じさせることができるのだろうか。前者にならないためにも、大人たちがきちんと見本を見せなければならない。梅雨が明けても気温が上がらず、雨の目立つ今年の夏。この夏は、大人も子供も今後に向けて大きな転換点となる。いつもと違うのは、どうやら気候だけではなさそうだ。

[大塩拓也]

第11回は栗橋あゆみが担当します。