(8)「今」をつかむ夏

1999.01.01
(8)「今」をつかむ夏
 第8回の担当は西村薫です。

 先日訪れた逗子海岸には、ウィンドサーフィンのセイルがいくつも浮かんでいた。海水浴客が太陽に誘われて沖に視線を投じると、水平線と同じ高さを進むボードの影。風を読み、波を蹴って、時速30㌖ほどのスピードで走る真夏のスポーツ。夏を強く感じた。

 ウィンドサーフィンは、スポーツの中でも難易度の高い競技だという。海水面に浮かんだボードの上に直立し、気まぐれに変化する浜風を受けながら、強弱をつけて寄せてくる波に対応しなければならない。普段まったくといっていいほど運動をしないわたしからすれば聞いただけでも手足がついていかないようなスポーツだが、愛好者にとってはそこが魅力らしい。夏の海の、光と風と波を一身に受け、研ぎ澄ませた感覚の、ここだ!という一瞬に帆を翻して颯爽(さっそう)と波間を走る。一瞬一瞬が、文字通り自らの腕次第で進みを変える。潔い人生のような決断の繰り返しだ。

 文章を読むのも書くのも好きで、日常でいいな、と感じたことはどうにかして文字にしたいと、生意気にも思ってしまう。たまに自分で良いフレーズが浮かんだときは、これはいつか記事に使ってやろう、と考える。ところが、いざそのタイミングが来て書こうとすると、待てよ、と思いとどまる。せっかく思いついた一節だから、この先使うのにもっといい、ベストなタイミングがあるかもしれない。それまでとっておこう、と。しかし、そうやって出し惜しみしてベストなタイミングで使えたためしは、残念ながらこれまで一度もない。

 わたしたちの毎日は、ウィンドサーフィンのように、一瞬一瞬の繰り返しだ。ここだ、と思う瞬間は「今」しかない。熟考も大切だが、その感覚に従って風を読み、波に乗って「今」をつかむことが時に賢明な決断になる。特に、経験で物を言えるほど立派な年でもないわたしならばなおさらだ。「ここだ」と感じる今を取り逃がして、臆病な出し惜しみをしてしまえば、老け込んだような後悔が残る。ならば波に不安定な足場でも、次々にやって来る「今」に一瞬の決断を下していきながら、背筋を伸ばして楽しんでいたい。21歳なりに力の続く限り、波に足をすくわれても笑って這い上がっていきたい。

 高校球児が渾身の力でバットを振り抜く夏。水泳や陸上における世界大会の、100分の1秒の戦いに手に汗握る夏。一瞬が詰まった、日が長い、せっかくの夏という季節なのだから。

[西村薫]

第9回は中村駿介が担当します。