
(5)〝島から甲子園〟 離島球児が見た大舞台 前山優樹インタビュー【前編】

夏の甲子園100回記念特別企画。第3弾は前山優樹投手(商3=鹿児島県立大島)のインタビューです。奄美大島の高校出身の前山選手は、高校2年次に離島のハンディキャップを克服し、21世紀枠で春のセンバツに出場されました。前編では前山選手の野球人生や、島での生活について語っていただきました。(この取材は7月29日に行ったものです)。
――野球を始めたきっかけを教えてください。
「小学校4年生の時に第1回WBC(ワールドベースボールクラシック)影響を受けて野球をしたいなと。それまでは水泳をしていました」
――島内で野球はどれくらい根付いていたのでしょうか。
「野球をやる人は結構いました。中学は県内でも強い方でしたが、中学の中でうまい選手が島内ではなく鹿児島本土とか、いろいろな所に取られてしまうので、島の高校は強くなかったです。でも自分の一つ上の代から高校でも島に残り始めて、そこから流れが変わってきたという感じです。(施設などは)大きい球場は一つしかないです。そこには社会人がキャンプに来ることもあります」
――中学以降の野球歴を教えてください。
「中学は地元の学校に行って、野球は強かったです。中学出る時に島外からスカウトが来たんですが、地元の高校に進みました。(島を出なかった理由)親の意見が一番大きかったです。また、1個上の代の先輩が多く残っていたので、大島高校でも上を目指せるかなと思いました。(選手が島に残り始めた要因)高校の監督がスカウトをしっかりし始めたことですかね」
――高校時代はどんな野球環境でしたか。
「(島外への遠征)ゴールデンウィークは沖縄に行って練習試合をしていました。(遠征費などは)県大会が本土であるので、ホテルに泊まるんですけど、勝ったら10泊以上もして、宿泊費が10万とかかかっていました。甲子園に出てからは寄付金がもらえて、自分たちでお金は出さなくてもよくなりました」
――高校野球を始めたときの印象はどうでしたか。
「最初は軟球から硬球に変わって、楽しんで野球ができました。大島高校が文武両道の学校でもあったので、勉強が大変でした」
――普段の生活は。
「7時15分くらいに学校に着いて、朝課外、1限から6限まで行って5時から1時間半くらいまで練習してました。土日は練習を長くやっていました。(グラウンド)山の上にあるんですけど、ソフトボール、ラグビー、サッカーなどと共同で使っていました。野球部が使える場所は広くなかったです。(甲子園には)まさか行けるとは思っていなかったです。(意識する相手はいたか)私立です。相手にするとみんな目の色を変えていました」
――島だからこそのメリット、デメリットはどんなところでしょうか。
「メリットはとにかく暑いので、本土で寒い時期でもボールを触れていたということです。デメリットは練習試合が少ないことと、遠征で慣れない環境なので疲れてしまう点ですね」
――独自の名物練習はありましたか。
「学校のグラウンドの前の坂道を駆け上る〝大高坂ダッシュ〟というのがありました。それで脚力を養っていました」
――島ならではのエピソードはありますか。
「練習場にヘビが出たり、イノシシが出たりしました。(退治の方法)ハブは専用の棒があるんですけど、それで取って箱に入れていました。危ないですよ(笑)。かまれたら死んでしまうので。イノシシは無理です。放っておくしかないです」
――貴重なお話ありがとうございます。後編も引き続きお願いします。
[曽布川昌也]
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