
(13)広陵高OB対談 佐野悠太✕喜多真吾【前編】

夏の甲子園100回記念特別企画。第7弾は、佐野悠太外野手(商4=広陵)と喜多真吾内野手(法3=広陵)の〝広陵対談〟をお送りします。夏は4度の決勝戦進出を数える名門校出身のお二人に、甲子園への思いと在学当時の思い出を語っていただきました(この取材は7月29日に行ったものです)。
――最初に、なぜお二人は進学先として広陵高を選ばれたのでしょうか。
佐野(以下、佐):自分は兄(佐野恵太選手・平29商卒・現横浜DeNAベイスターズ)も広陵だったので、付いてけるとこまで付いていこうと選びました。
喜多(以下、喜):自分は練習参加に行かせていただいた時に、中井先生とお話させてもらって、中井先生の元で野球をやりたいと思って決めました。
――名門校ゆえのプレッシャーを感じることはありましたか。
佐:新聞とかに大会が始まる前から〝優勝候補〟と載っていて、絶対に甲子園に行かないといけないというプレッシャーはありました。
喜:自分たちは悠太さんの代が出ていたので、もう1回行きたいという気持ちが強かったです。
――そうして出場した甲子園は、他の球場とは違いましたか。
佐:何と言ったらいいか分からないですけど、入った瞬間に違う雰囲気は感じました。最終回とかは一球一球どよめきがあって、それはみんな気になってただろうなと思います。
喜:人もすごく入っていたのでいつもと違う感じはしました。
――佐野選手の代は1回戦の三重高戦、サヨナラ押し出しで敗北が決まりました。その時の心境はいかがでしたか。
佐:高校野球が終わったな、と。本当に広陵で、中井先生の元でやれてよかったと思いました。三重高校さんもそこから決勝まで行っているので勝っていたらという気持ちはありますけど、悔いは残らなかったです。
喜:3年生ともう野球ができないという悲しい気持ちが強かったんですけど、宿舎に帰ってから明日から夏練か、と思ったらちょっとつらかったです(笑)。
――甲子園の砂は持ち帰られましたか。
佐、喜:持ち帰っていません。
佐:持ち帰りたかったという気持ちはありますけど、持ち帰れるような雰囲気でもなかったので、全員持ち帰っていないです。スパイクに付いた土だったりヘッドスライディングのときにベルトに挟まった土をバスの中で集めて、ちょっとだけ残ったものを持って帰りました。一応家には飾っています(笑)。
――最後のミーティングで監督からはどのような話をされましたか。
佐:負けた試合は自分のせい、という監督さんで「勝たせてあげられなくて申し訳ない」と。これから上に行ってつらいことがあったらすぐ連絡してこい、というミーティングをしていただきました。
――甲子園が終わった後は何をされていましたか。
佐:自分たちは1、2週間くらい地元に帰ってあいさつ回りをさせてもらったんですけど、喜多はすぐ帰って新チームを指導した感じです。
喜:最初は切り替えられなかったんですけど、秋の大会もあったので徐々に切り替えていきました。
――高校野球で一番印象に残っている試合は何ですか。
佐:最後の三重高校のサヨナラの試合は印象に残ってますけど、どの打席に何を打ったとかはあまり覚えてないです。あとは自分1試合に2個トンネルした試合があるんですよ。
喜:練習試合ですよね。東大阪大柏原高です、多分。
佐:そこで、当時はレフト守っていて、2回トンネルして部屋から出られなくなったのは印象に残ってます。
喜:自分は最後の夏負けた試合です。終わってしまった、という感じでした。
――甲子園はどのような場所でしたか。
佐:夢のような場所でした。一球一球歓声もすごいですし、全国放送というのは影響力があるんだなと感じて、親や支えてくれる人に恩返しができる場所じゃないかなと思います。
喜:素晴らしい場所だと思います。悠太さんも言っているんですけど、支えてもらっている人に恩返しができる場所だと思います。
――名門校ならではの貴重なお話ありがとうございました。後編もよろしくお願いします。
[三ツ橋和希]
後編はこちら
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