(7)名門・横浜高の主将 5度目の挑戦で甲子園へ 公家響インタビュー【前編】

夏の甲子園100回記念特別企画。第4弾は公家響内野手(政経2=横浜)のインタビューです。公家選手は名門の横浜高で主将を務め、高校3年次の夏に平田新監督の下、甲子園出場を果たしました。前編では公家選手の母校・横浜高への思いについて語っていただきました(この取材は8月1日に行ったものです)。
――今年の県大会決勝戦は応援に行かれていたそうですね。目の前で横浜高史上初の3連覇を達成した姿を見ていかがでしたか。
「率直にうれしかったです。当時自分が3年生の時の1年生が今は最上級生ですが、意外と話したりしたのは覚えていますし、いまだに連絡を取っています。母校が甲子園に出ることはうれしいですし、ましてや今の3年生は知っているので、より活躍してほしいです」
――なぜ横浜高校を選ばれたのですか。
「より高いレベルで野球をやっているところでやりたいという気持ちがあって選びました。(入学して)同期や先輩のレベルも高かったですし、注目度が違うなと思いました」
――横浜高校に憧れなどはありましたか。
「小さい頃に1回だけ松坂さん(大輔選手・中日ドラゴンズ)の本を読みました。大まかに記憶に残っていますね。実際に寮を見学した時に本に載っていた中華屋さんに行きました。よく横浜高校の人たちが来る中華屋なんだよと教えてもらって食べました」
――高校時代の日々は。
「毎日楽しかったですね。厳しかったですけど、やりがいがありました。甲子園のチャンスは5回あって1回だけでしたが、どんな相手でも勝つという気持ちでやっていました。(群雄割拠の神奈川県だが)勝ったら勝っただけ注目してもらえますし、悪い意味ではなく目立てるのはありましたね。そのためにみんなで頑張っていました。授業は14時まであったので、15時から遅くても20時まで練習をしていました。18時には全体練習は終わっていました」
――前主将のケガの影響で、高校2年次の冬から主将に抜てきされました。
「もともと最初からキャプテンをやるつもりでしたが、主将でなくてもいいと思ってずっとやってきました。途中から主将になったからと言って、特に変わることなくやっていたので、苦ではありませんでしたね」
――印象に残っている練習は。
「ファームという坂を走ったことですね。かなり急で長い坂を走ります。初めて死ぬかと思いました(笑)」
――公家選手の代から渡辺監督から平田監督へと変わりました。
「渡辺監督は手取り足取りやっていただいたのですが、平田監督は自分の感性や感触を大事にしてほしいという方でした。練習内容はそこまで変わりませんでしたね。渡辺監督もよく声を掛けてもらいましたし、平田監督も年が近い分、選手の気持ちを分かってくれると感じる部分は多かったです」
――最後の夏以外、公家選手の代は甲子園に行けていませんでした。
「チームの全員が優勝を目標にしていたので、甲子園に行くという強い気持ちがありました。でも2年次の秋の選抜で常総に負けて、春の選抜に行けなくて。それで一月くらい誰も野球をやらない時期がありました。3年間の中で一番悔しかったです。平田監督になってから特に自主性が強くなって、監督が言うのではなくて選手のミーティングが多くなって。その中で『あと1回しかないからそろそろやろう』と話して、少しずつですが野球に取り組むようになったと思います。それもいい経験になって夏勝てたのかなと思います」
――その苦難を越えて5度目の挑戦で甲子園を決めました。
「感動しました。見ている側のように感動しましたね」
――最初で最後の甲子園はどうでしたか。
「横浜スタジアムとは違って、守っていると壁ではなくて人の目線が入ってくるので不思議な感覚でした。(ホームランも放ちました)歓声の感じ方も違いました。『うわー』と包み込まれる感じでした」
――ありがとうございました。後編へと続きます。
[浜崎結衣]
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