(8)名門・横浜高の主将 5度目の挑戦で甲子園へ 公家響インタビュー【後編】
夏の甲子園100回記念特別企画。第4弾は公家響内野手(政経2=横浜)のインタビューです。公家選手は名門の横浜高で主将を務め、高校3年次の夏に平田徹新監督の下、甲子園へ出場を果たしました。後編では公家選手の野球仲間や、野球以外の思い出などについて語っていただきました(この取材は8月1日に行ったものです)。
――現役のプロ輩出が一番多いのが横浜高校だそうです。当時や今でも関わりはありますか。
「3週間くらい前に横浜スタジアムで2軍戦をやっていたので、藤平(尚真選手・東北楽天ゴールデンイーグルス)を見に行きました。そこら辺うろうろしていますし、ちょくちょく遊びますよ(笑)。あとはOBの方がグラウンドにいらっしゃって激励をしてくださったり、差し入れを持ってきてくださったりしました。筒香さん(嘉智選手・横浜DeNAベイスターズ)が印象に残っていますね。お昼を食べに寮の廊下を歩いていたら、曲がり角でぶつかりそうになって。『すみません』と謝ったら筒香さんで『でっかい!』と思いました。そうしたら筒香さんから『お疲れー』と言われて、そこで気付いてびっくりしました(笑)」
――野球以外での横浜高校の思い出は。
「共学になるので今はなくなったのですが、寮から100メートルくらい離れたところに別棟がありました。1階から3階まであって、1フロア50部屋くらいあります。そこにインフルエンザにかかると1人で泊まらされるんですけど、本当に怖いんですよ! 廊下に手形とかがあって、奥の上の部屋には十字架がいっぱいある部屋もあって…。普段は柔道部やスキー部がたまに合宿をしたりする場所です。泊まったことは2回あります。本当に怖いです。インフルエンザにかかってそこで1週間は地獄です。しかも廊下が長いので音が響くんですよ。『バタバタバタ』とか聞こえました。これ本当ですよ! 本当に怖かったです」
――寮生活の思い出はありますか。
「自分は福島出身なので、実家に帰るわけにもいかないです。そこで月に1回、県外の寮生はホームステイというのがあったので、仲が良い藤平や遠藤(駆・神大)の家に泊まりに行っていました。藤平は1年生の頃と引退してからの部屋が一緒だったんですけど、ずっとボケーっとしていましたね(笑)。何も考えていなくてマイペースなんですけど、自分のためになることはウエートとか何でもやっていました。やっぱりプロ向きの性格なんでしょうね」
――改めて3年間を振り返って。
「野球でもいろいろ知識を得て、今まで知らなかったような野球も身に付けられました。レベルが高い仲間がいる中で、自分ももっと頑張らないといけないという競争意識も感じて必死に練習できました。野球以外ではこれだけのたくさんの人にお世話になって、面倒を見てもらえるとは思っていなかったので、人との出会いが大きかったです」
――甲子園とはどのような場所ですか。
「行く前と行った後の気持ちは変わらないですけど、やっぱり行きたいなという場所でもありますし、夢の場所だと思います」
――初戦を控える後輩の方々へエールをお願いします。
「今まで練習してきたことを存分に発揮する場所だと思うので、準備を怠ることなく笑顔で頑張ってほしいなと思います」
――ありがとうございました。
[浜崎結衣]
◆公家 響(くげ・ひびき) 政経2、横浜、178センチ・82キロ、右投右打、内野手
高校3年次の夏の甲子園に出場。1回戦・東北高戦では本塁打を放つ。しかし2回戦は、寺島成輝選手(東京ヤクルトスワローズ)擁する履正社高に敗戦した。同期は藤平尚真選手(東北楽天ゴールデンイーグルス)。高校の先輩でもある渡辺佳明内野手(横浜=政経4)とは横浜高トークでよく盛り上がるそうだ。
公家選手の母校・横浜高は8月9日(木)に愛産大三河高との初戦を迎えます。熱戦にご注目ください。
次回の夏の甲子園100回記念特別企画は、西東京を沸かせた大池稜内野手(政経1=明大中野八王子)と米原大地投手(情コミ1=八王子)の八王子対談です。お楽しみに。
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(16)公立進学校出身者対談 高瀬雄大×村上貴哉【後編】
硬式野球 2018.08.12 夏の甲子園100回記念特別企画。最後は公立進学校から甲子園を目指した高瀬雄大内野手(営4=長崎西)と村上貴哉外野手(法4=松山東)の対談をお送りします。高瀬選手は高校3年次夏に長崎県大会でベスト8、村上選手は高校3年次夏に愛媛県大会で準優勝と、いずれも学業と両立しながら強豪私学にも劣らず素晴らしい成績を残されました。そして現在も一軍で活躍する2人に、文武両道を志した当時の生活や両立の秘訣(ひけつ)などを語っていただきました。 前編はこちら ――時間がない中でやっていた効率の良い勉強法、練習法を教えてください。 村:勉強は分からないところは、周りはみんな頭がいいので教えてもらっていました。野球に関しては場所も時間も限られているので、打撃とかは他の部活がいない方に向けて打ったり、鳥かごのようなスペースでやっていました。考えられた練習方法を代々受け継いでいました。 高:勉強は電車の中や10分休みなど、ちょっとした時間にしていました。まとまった時間は取れなかったので。野球の方も一緒で時間が取れないので「今日は守備の日」とか「今日は打撃の日」とか、一つのことに集中していました。また、勉強のせいで野球に支障が出ないようにと考えていました。課題の提出が遅れると練習に参加させてもらえなかったので、それだけはないようにと思っていました。 ――公立、あるいは進学校としてメリットは感じましたか。 村:練習時間が短いからこそ、だらだらせずに自分からやる練習が多く、サボってやろうという考えはなかったです。あとは、野球だけやってる学校にどうやったら勝てるかいつも考えていました。周りから見たら時間がないし環境が悪い分損をしているかと思われるかもしれないですけど、その分意識の部分でプラスに考えていました。損をしている分どこかで取り返そうという意識でやっていたと思いました。 高:全く一緒ですね(笑)。練習時間は短かったですけど、それがハンデだとは考えなかったです。 ――高校生活でのベストゲームや印象に残る強豪との対戦は。 高:3年生の時の県大会で佐世保実業にコールドで勝てました。打撃に力を入れていたので、打撃で圧倒して勝てたあの試合がベストゲームだと思います。また、2年夏に九州国際大付や九州学院と、負けはしましたけど競った試合ができたので印象に残っています。 村:3年の夏の3回戦の、第1シードの今治西との試合に1―0で勝ったんですけど、自分が1番でセンター前ヒットで出塁して、2番が送って、3番がフォアボールで4番がライト前で自分がホームインしてその1点を守り切った試合です。第一シードを倒して目標だったベスト8に行けたのが大きかったです。 ――高瀬さんは指定校推薦、村上さんはスポーツ推薦で明大入学を決めました。 高:高校に入った頃には指定校を意識していました。一般受験では行けないだろうと思ったので。元々自分の高校が指定校の枠を多く持っているのを知っていたので、入学当時から狙っていました。(引退後は)高校の野球部の練習に参加したりして体を動かしていました。 村:3年になった頃に指定校で行くならもっとちゃんとやらないとという話になって、夏終わったあとに六大学で野球やりたいということを言うと、明治のセレクションを受けないかと言われて受けたら通ったという感じです。 ――高瀬さんは、高校時代の実績では他と比べて劣る中、1軍のレギュラー争いに絡んでいます。 高:夜練習とかは周りよりやろうと決めているので、持ち味のバッティングでアピールしていこうと意識しています。 ――最後に、文武両道を志す全国の球児たちにメッセージをお願いします。 高:勉強も間違いなく野球につながると思うので、どちらも手を抜かず、頑張ってください。 村:甲子園だけが全てではないし、高校時代にやっていることが人生の財産になると思うので、頑張ってください。 ――お忙しい中、インタビューにお付き合いいただきありがとうございました。 [曽布川昌也] 前編はこちら ◆高瀬 雄大(たかせ・ゆうだい)〈写真左〉 営4、長崎西、180センチ・75キロ、右投左打、内野手 長崎西高は進学校にして甲子園出場の実績を持つ文武両道の名門。自身は高3次夏に3回戦で強豪・波佐見高と善戦するも敗北。 ◆村上 貴哉(むらかみ・たかや)〈写真右〉 法4、松山東、173センチ・78キロ、右投右打、外野手 母校・松山東高が卒業後のセンバツに出場。21世紀枠での出場ながら勝利を挙げた。野球に関する名句も多く残した正岡子規が高校の先輩に当たる。 夏の甲子園100回特別企画はこれにて終了となります。12名の選手の皆さま、快く取材に応じていただきありがとうございました。選手の皆さま、及び皆さまの母校のますますの活躍にご注目ください!READ MORE -
(15)公立進学校出身者対談 高瀬雄大×村上貴哉【前編】
硬式野球 2018.08.12 夏の甲子園100回記念特別企画。最後は公立進学校から甲子園を目指した高瀬雄大内野手(営4=長崎西)と村上貴哉外野手(法4=松山東)の対談をお送りします。高瀬選手は高校3年次夏に長崎県大会でベスト8、村上選手は高校3年次夏に愛媛県大会で準優勝と、いずれも学業と両立しながら強豪私学にも劣らず素晴らしい成績を残されました。そして現在も一軍で活躍する2人に、文武両道を志した当時の生活や両立の秘訣(ひけつ)などを語っていただきました。 後編はこちら ――まず、それぞれの高校を選択した理由をお願いします。 高:中学時代から目指していた六大学に行きやすいというのと、野球をしっかりできるということで選びました。(私立に行くことは)悩んだんですけど、六大学に行きたいという思いが強かったので、長崎西高を選びました。(六大学野球を意識し始めた時期)中2の時にテレビで早慶戦を見て、いいなと思いました。(他の高校からのスカウト)多少はありましたけど、長崎西高からも来ていて、普通に受けたら入れなかったので、お誘いを受けて選びました。 村:甲子園に行くことが目標だったんですけど、野球だけで行くのではなく文武両道で甲子園に行ける所を探して、21世紀枠で甲子園に出られる可能性が一番高いのは松山東高だと思ったので選びました。(大学野球は意識していたか)大学まで野球をやるよりは、甲子園に行きたいということが前提にあったので、文武両道を達成できたら区切りをつけてもいいかなと思っていました。最後の夏に準優勝して、もっと上を目指したいなと思ったので、そこから大学野球を意識しました。 ――高校時代チームとして意識していたことはありますか。 村:完全下校があって、練習時間は1時間から2時間と限られていたので、その中で質の高い練習をすることと、グラウンドが内野だけしかなかったので、どうしたら技術を得られるかをテーマにしていました。休日練習は他の部との兼ね合いで4時間くらいしかできませんでした。 高:自分も一緒なんですけど、練習の量や時間では私立にかなわないのは分かってたので、その分質の高い練習だったり、勉強も野球に生かせるように心がけてやっていました。 ――高校時代のスケジュールの例を教えてください。 高:6時半くらいに家を出て7時半くらいに学校に着くんですけど、日課の朝のトイレ掃除をやって、8時からホームルームで授業を受けて、昼休みに野球部全員で集まって昼食をとって、綱上りという練習をして、午後は授業を受けて練習に走って移動して2時間くらい練習をして走って戻って各々帰ったり自習したりしていました。(綱上りとは)体育館に8メートルくらいの綱があるんですけど、手の力だけで上るというのを、ご飯を食べながら交互にやっていました。(グラウンドと学校の距離)2~3キロ離れてずっと坂なので、20分くらいかかりました。(当時の平均の勉強時間)2時間くらいですね。 村:自分も6時半くらいに家を出て、7時から8時まで自由参加の朝練をやって、8時すぎから授業があって、授業が終わって午後4時半から練習が始まって、6時半くらいまで終わって7時に帰宅して、宿題して寝るみたいな生活ですね。自分たちは野球より勉強が優先の学校なので、宿題があったらやらないといけないし、その分野球をやっている間は集中できたというか、好きなことがやれる時間だけに気持ちを入れて練習できました。 ――母校の施設はどんな感じでしたか。 高:専用グラウンドを持っていて、時間は短かったですけど環境としては良かったです。雨の日はグラウンドに行かずに学校で練習していました。階段を使ったり、シャトル打ちだったり、くらいですかね。あとは坂ダッシュがあって、それが一番しんどかったですね。 村:グラウンドが狭くて時間も場所もなく、環境は良くなかったので、頭を使って野球をやることをモットーにしていました。室内ブルペンのようなものもあったんですけど、雨が降ったら横から水が入ってきて結局使えないので、雨の日は階段走ったり素振りしたりするくらいですね。 ――ありがとうございました。後編も引き続きよろしくお願いします。 [曽布川昌也] 後編はこちら READ MORE -
(14)広陵高OB対談 佐野悠太✕喜多真吾【後編】
硬式野球 2018.08.11夏の甲子園100回記念特別企画。第7弾は、佐野悠太外野手(商4=広陵)と喜多真吾内野手(法3=広陵)の〝広陵対談〟をお送りします。夏は4度の決勝戦進出を数える名門校出身のお二人に、甲子園への思いと在学当時の思い出を語っていただきました(この取材は7月29日に行ったものです)。前編はこちら――近くで見て、対戦して衝撃を受けた選手はいましたか。佐野(以下、佐):自分は2年生の時に瀬戸内高校の山岡選手(泰輔・オリックス・バファローズ)と対戦したんですけど、スライダーがすごくて今まで見たことなくて。1打席目にヒットを打ったんですけど、その後からはずっとスライダーで3三振してレベルが違う感じを受けました。喜多(以下、喜):自分は佐野悠太さんです(笑)。チャンスで回ってきたら確実に打っていたので。佐:高校の時はですよ(笑)。自分は今季0打点だったので後輩からもアドバイスをもらいながらやっていかないといけないと思っています。――お二人の仲の良さは高校時代からでしょうか。喜:バスはいつも横でした。佐:バスの中でお互いの手をマッサージし合っていました(笑)。試合が終わった後にバスで隣になって、手をパッて出したらしてくれて。もうルーティンのような感じでした。今年も(県大会)決勝だけ2人で一緒に携帯のライブ中継で見ていました。やっぱり自分のことのようにうれしかったです。――中井哲之監督について印象に残っていることはありますか。喜:(喜多選手にとって最後の試合、県大会準決勝で)9回に「男の生きざまを見せろ」と言われました。佐:細かいことは言わないですね。一言で選手全員の気持ちを変えてくれる人なので。俺らの代でもあったよな、何回か。喜:「やってきたことと違うから、信じてやれ」みたいな感じでした。佐:負けてるときにたまに一言だけそういう言葉をくれるんですよ。自分たちも言われた回に逆転したりとかする感じで。言葉に力がある、すごい人だと思います。――中井監督は〝男らしさ〟という言葉をよく口にされると伺いました。佐:「男らしくあれ」というのはずっと言われていて。中井先生が真っすぐな方なので、それに付いていこうという感じです。普通は監督さんだったら技術の指導が多いんですけど、技術面は教わらずに自分で考えてやれというスタイルなので、そこは他と違うかなと思います。――色紙には〝ありがとう〟と書かれましたが、これも広陵高にまつわるものでしょうか。佐:広陵は何を言われても「ありがとう」と返します。「もっとしっかりしろ」と怒られた時も、普通は「すみません」と言うと思いますが、自分たちは「ありがとうございます」と言います。それは中井先生が「君のために注意したのだから、すみませんじゃなくてありがとうございます」じゃないのか、というふうに言っていて、その通りだなと思って。「ありがとう」というのは広陵の選手みんなが大事にしている言葉です。――お忙しい中、インタビューにお付き合いいただきありがとうございました。[三ツ橋和希]前編はこちら◆佐野 悠太(さの・ゆうた)〈写真右〉 商4、広陵、171センチ・75キロ、 右投左打、外野手 春夏通算2度甲子園に出場し、最高成績は高校3年次夏の1回戦。兄は佐野恵太選手(平29商卒・現横浜DeNAベイスターズ)。かつてから喜多の憧れの選手として名前を挙げられていた佐野。そのことを取材時に伺うと「今初めて聞きました(笑)」と一言。後輩からの熱視線には気付いていなかったようだ。◆喜多 真吾(きた・しんご)〈写真右〉 法3、広陵、182センチ・88キロ 右投左打。内野手 高校2年次にレギュラーとして甲子園出場。高校3年次は主将を務めた。高校入学前から「大型のショートが入ってくる」という評判がチーム内で流れていたという喜多。だが、実際に会った佐野からの第一印象は「かわいいフェース」。大きな体以上に、その愛くるしい笑顔が印象的だったという。 お二人の母校・広陵高は8月12日(月)に二松学舎大付高との初戦を迎えます。熱戦にご注目ください。 次回の夏の甲子園100回記念特別企画は最終回、高瀬雄大内野手(営4=長崎西)と村上貴哉内野手(法4=松山東)の公立高OB対談です。お楽しみに。READ MORE