
(64)平嶋桂知 あえて険しい山を登る

最速154キロを誇る平嶋桂知投手(政経1=大阪桐蔭)。名門・大阪桐蔭高時代は2年時秋からエースナンバーの背番号1を背負い、甲子園を3度経験。理想の選手像は「平嶋が投げたらチームは勝てると思われる投手」。U—18日本代表候補にも選ばれた実績十分な右腕は舞台を移した明大でもエースの道へ昇りつめる。
野球に囲まれた幼少期
家族が野球をやっていた影響で小学1年時から自然と野球を始めた。軟式野球チームに入団するとすぐに頭角を現し、中学時に所属していたリトルシニアではエースとして全国ベスト4。そして「やるなら一番レベルの高いところでやりたい。そこで出られないならその先でも活躍できない」と覚悟を決め春夏通算9度の全国制覇を誇る名門・大阪桐蔭高へ東京からの進学を決めた。
高校3年間で得たモノ
高校入学時は「すべてが足りなかった」と話す。2学年上には松尾汐恩捕手(現横浜DeNAベイスターズ)、1学年上には前田悠伍投手(現福岡ソフトバンクホークス)など全国屈指の選手が多数在籍していた。ハイレベルな競争にもひるまずひたむきに努力し続けた平嶋は、高校1年時秋にベンチ入りを果たすも、すぐメンバーから外れてしまう。「一度メンバーから外れたことでベンチに入りたい思いが強くなり、ずっと練習していた」高校1年時の冬がターニングポイントだった。そして2年時秋から憧れの大阪桐蔭で背番号1を背負い、3年時の選抜で甲子園初登板を果たすと北海高戦、報徳学園高戦の2試合に登板して防御率1.63とベスト8進出に大きく貢献。「状態もよく自信をもって投げることができた」と日本一になるために取り組んだ練習は確実に結果に表れ始めた。しかし夏の大会でのさらなる飛躍を目指しフォームを改良した結果、自分を見失い調子を崩してしまう。本調子でないまま迎えた夏の大会は甲子園出場こそ果たしたが、ほとんど下級生の2人にマウンドを譲る形となり登板は2イニングのみ。チームも2回戦で敗退し、不完全燃焼な最後の夏だった。高校3年間では諦めずに取り組んでいたら結果はついてくることを学んだと言う。「もし今中学3年生でも大阪桐蔭高に進学する」。苦しくも楽しい高校生活が幕を閉じた。
土に生える木のように
大学でも「やるなら一番レベルの高いところで」と西谷浩一監督の助言もあり明大に進学。入寮時に高校時代毎日書いていた野球ノートを持ち込むほどの真面目さだ。「土に生える木のようにしっかりと、そして知識がある子に育つように」と名付けられたように名門野球部の庭で根を張り始めた平嶋。その幹はこれからも強く太く伸び続けるだろう。
[重見航輝]
◆平嶋 桂知(ひらしま・かいち)東京都出身、大阪桐蔭高。187センチ、88キロ、右投両打、投手。ライバルは高校の同期の境亮陽外野手(法大)と徳丸快晴外野手(早大)。
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