
(94)大学野球引退インタビュー 小池璃子マネジャー

(この取材は11月8日、zoomにて行われました)
小池璃子マネジャー(政経4=桐生)
――入部前と入部後でイメージのギャップはございましたか。
「自分は進路を決める時に六大学野球のことを知りました。高校時代にしていた野球部のマネジャーはずっとグラウンドに出ていて、女子マネジャーは1人で、選手は同期が10人くらいしかいない野球部だったので、大学に入学してからはマネジャーが10人以上、選手も100人以上いる中での環境に慣れるのに必死でした。(入部の)最終面接前にマネジャーの業務体験で合宿所に行っていたので、あまりイメージのギャップというのはなかったのですが規模感に慣れるのが結構大変でした」
――同期に男性の専任マネジャーがいらっしゃらなかったということですがいかがでしたか。
「自分たちが最上級生になってから西田大流(選手兼マネジャー・政経4=横浜氷取沢)が選手兼任のマネジャーをすると決まるまでの期間が長くて、女マネジャーは自分の家から通っていて、選手が朝起きてから夜寝るまで知らない中でどのスタイルが一番自分たちの代に合っているのかというのを考えました。1個下の男子マネジャーが主務になって2年間やるというのもありましたが、自分は最初からさくら(岸上主務・政経4=立命館慶祥)が主務になるのが一番いいなと思っていたので推薦して良かったなと思います」
――他のマネジャーとは違うご自身の武器、意識していたことは何ですか。
「自分にはそれといった武器はなかったのですが4年間、いろんな人や周り見てやるのを大切にしていました。例えば年下のマネジャーが仕事に対して意見できるように、うるさいと思った人もいるかもしれないですが、マネジャーがいる事務室が雰囲気良くなるようにはしていました」
――野球部の公式ブログで同期の女子マネジャーを『三人官女』というふうに書かれていたと思います。それは合言葉的な感じでしょうか。
「連盟の役員で、明治の先輩理事をやられている 津賀(正晶)さんという野球部のOBの方がいらっしゃるのですが、今まで女子マネジャー3人というのが成功したことがなくて、この代が初めて成功した代だという評価をいただいて名付けていただいております」
――4年間、野球部で過ごして忘れられない言葉はありますか。
「一番うれしかったのはやはり、先ほども言った津賀先輩理事の『今まで見てきた中で女子マネジャー3人というのが成功したのはこの代が初めてだ』という言葉です。津賀さんが普段は褒めたりしない方で仕事はできて当たり前、失敗したら怒られるという中で、最上級の褒め言葉を自分たちはもらって、胸を張ってこの3人で良かったなと思った瞬間だと思います」
――中学3年時に見た神宮球場での試合が印象的で野球に夢中になったとお聞きしました。小池マネジャーにとって神宮球場とはどのような場所ですか。
「このお仕事でたくさん関わらせてもらったので、ホームですかね。(東京)ヤクルト(スワローズ)ファンなのでそういう意味でも、神宮球場はホームです」
――4年間で一番の思い出を挙げるとしたらいつですか。
「この前の10月24日です。さくらの誕生日とドラフト会議があった日です。広報の仕事を担当していて朝も夜も電話かかってきて、連絡に追われながら過ごす毎日が少しだけストレスな時もありましたが(宗山塁主将・商4=広陵、浅利太門投手・商4=興国の)2人が呼ばれた瞬間は本当にうれしくて印象に残っています」
――特に思い入れのある仕事はございますか。
「私はやはり最後の1年間、広報を担当して宗山塁という世でいう大物スター選手の取材申請が毎日飛んでくる中、それに対応するというのはこの年に生まれて、明治大学野球部に入らなければできなかった仕事かなと思います。ありがとうございます」
――チーム全体を見ていて、今年度はどのようなチームでしたか。
「バランスは良かったです。(漢字一文字で表すといかがですか)『輪』をチームスローガンに掲げておいてですけど、本当に『個』という感じです(笑)」
――4年間続けてこられた原動力は何ですか。
「やったからには最後まで好きなことをやろう、親のためにも好きなことやろうというのはあります。あとは野球から離れた生活ができないのと、辞めたいと思うことはたくさんありましたが(岸上主務、大崎未稀マネジャー・営4=滝)2人がいたからです」
――ここまで共に乗り越えてきた岸上主務、大崎マネジャーに何と声を掛けたいですか。
「ありがとうとか言うと終わったみたいになるので、これからも仲良くしてね」
――ありがとうございました。
[小松錦葵]
※写真は硬式野球部提供。
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