(84)ドラフト特別企画 宗山伸吉さん

2024.11.05

(この取材は10月28日に行われました)

宗山塁主将(商4=広陵)の父・宗山伸吉さん
――宗山主将が先日のプロ野球ドラフト会議で1位指名を受けました。
 「カープ(広島東洋カープ)が1位を公言されていたので、とりあえずカープは指名があるだろうとは思っていました。結果として5球団競合の指名をしていただいたので、そこは高く評価していただいたことをうれしく思っています」

――テレビにも出演をされていましたが、当日はどのように過ごされていたのでしょうか。
 「当日は休みでした。娘が帰ってきていたのでそれを迎えに行ったりして。それで4時くらいにパブリックビューイング会場に行って終わるまで居ました。塁とは午前中に連絡をしました。特別な思いがある日だと思いましたので」

――幼少期はどのようなお子さんだったのですか。
 「おとなしい子でした家では。塁という名前を決めたのも僕の一存と言っても過言ではないくらいで。野球をしてくれるに越したことはないのですが、別に野球ではなくても関係なかったんです。たまたま野球をしてくれたんで塁という名前がはまったのですが、野球をしようがしまいが塁という名前にしていたと思います。何かスポーツをしてほしいとは思っていましたね。自分が体が動かせるようになったのが4歳くらいだったので、遊びがてらという感じで僕がトスを出してという感じで野球を始めていました」

――宗山主将の投打の左右(右投左打)はお父様のご意向なのでしょうか。
 「いえいえ、投げるのも打つのも本人がやりやすい方を選ばせたんです。投げるのは小さいころはどちらでも投げていた中で、次第に右で投げる回数が増えてきて、最後は右でしか投げなくなったのでこれは右投げだなとなりました。打つ方は本当に最初から左でしか打たなかったんです。僕は理想としては右投げ右打ちの方が良いなとは思っていたんですが、右で全然振らないですし、左でスムーズに振っていたので左なのかなと。(以前、食事の際のみ左手を使うと伺いました)元々右利きなので字を書くのも箸も最初は右でした。小さいころに鉛筆をきちんと持てるようにしつけをして、箸をちゃんと持てるようにしつけをして、恥ずかしくない形になったので、小学校4年生くらいの時にじゃあ野球の練習のために箸だけは左にしようかと。野球は両手を使うスポーツなので、左手を器用に使えた方が絶対得すると思ったのでね。ちゃんと理由があって提案したので塁も素直に受け入れて頑張ってくれたのですが、最初の2ヵ月くらいは思うように箸が動かないのでなかなか食べきれないのですが、最後まで食べるように僕が言って時間をかけて食べていましたね。最初のうちは少し痩せてしまっていました」

――小、中と進む中で、野球の技術的な部分も含めて成長をどのように感じていらっしゃいましたか。
 「野球の技術的なことに関しては、小学1年生の時に(伸吉さんが監督を務める三良坂少年野球クラブ)に入ってきたのですが、何でもできていましたね。体が小さいだけで、捕る・投げる・打つは全部できていました。そこは何も不安はありませんでした。変な癖もないなと最初から感じていて、特別いじったこともないんです。あと、見たものをすぐにできていたんですよ。物まねが上手なんです。例えばテレビでプロ野球を見ていた時に、打ち方や投げ方のまねを僕が『やってみて』と言うととても上手に物まねしていました。だからいい選手のいいプレーを同じようにすれば、いいプレーができるように、そういうのって大事だと思うんです。逆に変な癖のある選手のまねはしていなかったのではないですかね」

――何度も伝えたことを教えてください。
 「まずは人としての部分ですよね。偉そうな態度をとっている時は烈火のごとく怒りましたが、そういう様子は小学校の高学年くらいから見せなくなりました。今でも自分から偉そうなことを言うことはないとは思うのですがね。人間の評価は自分で決めるものではなく、必ず他人が決めることです。であれば他人にどう思われるかと言うのは自分の態度や行動しかないので、そこに責任を持ってしっかりとやっていこうといった感じのことは伝えていましたね」

――伸吉さんのご出身でもある広陵高への進学についても教えてください。
 「自分の出身ということもあります。他の学校さんからもいくつかお誘いは受けていたのですが、中井先生(哲之広陵高監督)にも『広陵に来い』と声をかけていただいた中で、小さいころから広陵の試合ばかり見にいっていましたし迷わなかったと思います。(中学時代は軟式の高陽スカイバンズでプレーしたのに対し、高校硬式は)打撃も守備も軟式のボールとは違いますので、打感や跳ね方も変わってくるのですが、高校でスムーズに入れるように中学2年くらいから自主練習は全部硬球でやっていました。塁が中学3年の夏からは中学を卒業するまでの間が半年以上あって練習する環境がない時期には、自分の後輩が三次市近辺の子を集めて野球塾を開いているのですが、体力作りも含めてそこに行かせていたりもしました。そこは硬球で練習していましたし、硬球に変わった違和感はそこまでなかったのではないでしょうかね」

――広陵高時代の宗山主将についてはどうご覧になっていましたか。
 「広陵に入ったらまず間違いなく年に一度しかまともな会話ができないと思っていましたし、寮にいる間も試合を見に行っても会話とかはできません。電話が月に1回くらいですかね、こちらからかけることはないので。覚えているのは高校入学の1週間前に入寮したんですが、入寮して2週間後に知り合いから『おめでとうございます』って言われたので『何が?』と返すと、Aチームに入ったということだったので『え、嘘!』という感じで。そこからはずっとAチームで卒業するまでいたので、こちらがびっくりですよね。1年生は体力づくりからって思っていたので。その夏ぐらいにコーチの方と少しお話しする機会があって、少しだけお話をさせていただいたのですが、入学した時に塁は思ってたより体力があると言われたんです。練習に全然ついてこれるなと思ってすぐにAチームに上げたんだとコーチの方に言っていただいたその時はうれしかったですね。うちの自宅周辺は自然しかありませんし、家の近くの道路でキャッチボールをしたり練習をしていましたよ」

――高校3年の春には新型コロナウイルスの影響で広陵高も一度寮を解散したと伺っていますが、その時はどのような声をかけられたのでしょうか。
 「どこの学校も当然休校で、誰も経験したことないことだったのでどう声をかけていいかという感じで。しかも休みの期間に夏の甲子園が中止になるという発表があったので、本人はおそらくショックだったと思うんです。2ヵ月くらいいたのですが、あまり喋りませんでしたね。元々喋らない子だったのにより一層喋らなくなりましたし、目が死んでいましたね。やはり人間目標を失うといけません。塁は小さいころから全てのカテゴリで目標を設定していて、高校のころはきっとそれが甲子園だったと思うのですが、そもそも目標を持たせてもらえない状況になったわけなので、そこの気持ちには私には理解できないところだと思います。本人は再開してから中井先生に声をかけていただいてまた頑張る気になったようですが、休みの期間は練習にもあまり身が入っていなかったようにも感じますね。キャッチボールやトスバッティングなど、野球の練習をするにはパートナーが要るので、その相手はしていましたよ。塁が中学の時以来ですから久々だったのですが、その時は僕も体がボロボロになりましたよ。老体にむちを打ってね(笑)。もはやついていけないレベルでしたね」

――広陵高卒業後は明大に進学し、1年春からリーグ戦に出場しました。
 「まず大学の進学先に関しては僕はあまりタッチしていなくて『中井先生と塁で話して決めなさい』とだけ伝えていました。(1年春から出場機会をつかんだことに関して)いやもう、それもびっくりですよね。いつも入ってすぐびっくりするんです。中学校の時も1年生で春入ってすぐ試合に使ってもらって、高校大学もそうなんです。『少し余裕あった方がええんじゃないん?』と逆に思ったりもするのですが、見事にホームラン打ったりしたので、さすがだなと見ていましたよ。会うのは年末ですが、今年の春にケガをした時にはさすがにその日に連絡をしてきました。最初は肩で、次の指の骨折の時には『春もう出られん』と言って来たので、マジかと。関節の故障とかではなくて骨折だったので、時間が経てば治るわけですから秋に頑張るようにとは伝えていましたね。試合はシーズン1回か2回は行っているので、年間3〜4回は試合を見ています。会えればご飯に行ったりもしますね。大学2年、3年の時は大学日本代表に参加していたので夏も帰ってこなかったのですが、今年はケガをしていたので、6月に1週間弱ほど三次に帰ってきていましたよ。よく喋るようになっていて、いろいろな話をしました。野球の話が多いのですが、それは塁が自分の話をするというわけではなくて、僕が塁にいろいろ聞くんですね。野球は新しい理論があったり、技術的にも日々進歩しているのでね。バッティングって本当はこうやるんだとか、守備の時はどこに気をつけたら良いかとか、スローイングの時は何が悪くてこうなるのかなどいろいろ聞いて。これがね、野球の話し出すと止まらないんです。1時間でも2時間でも喋るんですよ。塁は酒も飲まんのに(笑)。言葉にするのは昔から上手で、ただある程度言葉は選んで喋っていると思います。あと口は堅いですね。『これは言っちゃいけんよ』とか『これは秘密ね』と言ったことは絶対に喋りません。たまに人見知りもしていましたね。腹の内をあまり見せないタイプかもしれませんね」

――これまでで言われた中で最も印象的な言葉を教えてください。
 「簡単な言葉なのですが、広陵に入寮したその日に、僕は今日から塁と一緒に練習できないのかと思って寂しいと思っていたんです。塁を送っていって家に帰った時が一番寂しかったのですが、その日の晩に塁が寮の公衆電話から電話をかけてきて『今までありがとう』と。それが一番印象に残っていますかね。思いが詰まっている感じがしてね」

――宗山主将は以前、自身の課題をスピードの部分だと発言されていました。
 「足は遅いわけでは全くないのですが、特別速いというわけではないんですよね。本人は意識をしているつもりなのかもしれませんが数字にも表れていますよね、盗塁が少ないです。走ることに対する意識はやや薄いのかなと感じます。実は盗塁は昔から下手だったんです。足はあるのに刺されるんです。真面目なので『盗む』ことが下手なんですよね。走ることは盗塁だけではありませんが、そのあたりのがつがつした積極的な感じがなくて。試合で失敗してうまくなる部分もあると思うのですが、いつも失敗できない状態の試合が続いているので、どうしても置きに行ってるというか、自重したりという場合が多い気はしますね。持論ですが盗塁は足の速さではないと思っていて、塁のスピードなら絶対にもう少し走れると思うのですがね」

――今伝えたいことを教えてください。
 「緩むことなく日々精進して行ってほしいですし、一日たりとも無駄にせずレベルを上げてほしいです。将来的には日本を代表する選手になってほしいですがまず開幕一軍、スタメン、全試合出場というところを目先の目標として取り組んでほしいです。試合に出続けていればいい部分悪い部分は出てくると思うので、全試合出てくれたらと思っています。そのために何をしないといけないかというのは本人が一番分かっていると思います」

――ありがとうございました。

※本インタビューを含めた「明大スポーツ新聞第541号(ドラフト特集号)」は11月7日発行予定です。

[上瀬拓海]