明大スポーツ号外 戸上隼輔インタビュー

2024.03.23

 3月23日発行の明大スポーツ号外で1面を飾った戸上隼輔(政経4=野田学園)選手。本記事では紙面に載せきれなかったインタビューの拡大版を掲載いたします。
(この取材は3月5日に行われたものです)

――今体調はいかがですか。
 「今はだいぶ回復して、練習も通常通りできている状態まで戻ってきた感じです」

――今年2月の世界選手権では体調不良で出場がかなわず、やり切れない気持ちもあったと思います。心境はいかがでしたか。
「悔しい気持ちがかなり強くて、オリンピックの出場権が懸かった大事な大会に自分が出場できず、応援しかできなかったのはすごい悔しい反面、いい刺激をもらえたのは良かったのかなと思っています」
 

――ベンチに入られたオーストリア戦は五輪団体出場枠を懸けた大一番だったと思いますが、ベンチではどんなことを感じていましたか。
「ああいう機会は今回初めてで、ベンチに入れば必ず出場していた立場でもあったので試合をせず応援して見守るというのはかなり新鮮でした。出場する選手たちの顔を見たら、すごく緊張感も伝わってきて、覚悟を持ってやっているんだなという気持ちが伝わってきたので、その気持ちに応えられるようにサポートできたらなと思っていました」
 
――ご自身のパリ五輪出場権も懸かっていたと思いますが、試合に出る選手たちにどんな思いを託されていましたか。
 「本当に申し訳ない気持ちというか、特に松島(輝空・木下グループ)に対し大きな負担をかけてしまっているのかなという気持ちもあったので、活躍してくれてうれしかったです。ただやはり自分の力で出場権はつかみ取りたかったなという気持ちはあります」

――世界選手権では具体的にどんな刺激を感じましたか。
 「特に出場機会の多かった3人は僕より年下で本当に若い力というか、僕もまだまだ22歳でこれからっていう時なのですが、 日本の若い力の勢いを間近で感じさせてもらって、立ち向かっていく気持ちだったり、自分が世界卓球に初めて出場させてもらった時ノ『もうやるしかない』みたいな初心の気持ちを思い出させてもらいました。立ち向かっていく姿勢を改めて実感したので、今後そういう初心の気持ちを改めて持ちたいなって思いました」
 

――ベンチでは何か声かけされていましたか。
 「そこまで声をかけてはないです。(選手たちは)やってやるぞっていう気持ちで試合に挑んでいたので、そこまで自分からアドバイスするような必要もなかったですし、安心して見送れたのかなとは思っています」
 

――日本男子としてはパリ五輪の団体出場権を獲得したということに対して、安堵の気持ちなどはありますか。
 「まずは出場権獲得できたことは本当にほっとしますし、一つの大きなヤマ場だと思っていたので、それをまず達成することができて良かったです」
 

――今年1月の全日本選手権(全日本)のシングルスで準決勝は、吉村真晴(TEAM MAHARU)選手との試合でした。振り返っていかがですか。
「高校の先輩に当たるので自分としては立ち向かっていく気持ちを持ってやっていたのですが、吉村選手も気持ちが強く、点数離れていたり競った場面でネガティブにならず積極的に攻めてくるので、その気持ちに負けないようにやらないと飲み込まれるなと思っていました。気持ちの面でまずは負けたくないなと思って試合しました」

――試合としてはフルゲームでした。試合前思っていたことと違いはありましたか。
「厳しい戦いにはなるのかなと試合前から思ってましたし、本当に負けてもおかしくないような対戦相手なので、どういう試合になるかというのはすごく不安でした。自分の卓球を貫いて、思い切ってできれば勝つチャンスはあると思っていたので、その不安や緊張に負けないようにプレーしようっていうのは試合中や競った場面でもずっと考えていました」
 

――競った試合の中でも勝ち切れたキーポイントはございますか
 「本当にたくさんあるのですが、ゲームカウント3―3の1―4で負けていてそこから一点一点し諦めず追い求めて最後までできたのが、負けている中でも最後に逆転できたり勝ち切れた勝因なのかなと思っています」
 

――吉村選手は準決勝の試合前に『戸上選手の壁に全力でなる』とおっしゃっていたと思いますが、試合経てどんな選手、どんな存在として見えていましたか。
 「吉村選手は数々の国際大会の実績だったり、オリンピックでもメダルを獲得したり、本当に尊敬している選手なので、やっぱり本当に大きな壁だなっていうのを感じていました。この壁を乗り越えれば今後自分が成長できるようなターニングポイントの一つになれるんじゃないかなと感じたので、絶対勝ちたいなと思ってました」
 

――試合後戸上選手の勝利が決まって、吉村選手がニヤッとして、お2人笑顔になる瞬間あったと思います。どんなことを話されたのでしょうか。
「本当に苦しい試合だったのでまずは自分が勝ててほっとして、握手行こうとしたら吉村選手と目が合って、満面の笑みで迎えてくれました。その後ハグした時に『これからが本番だぞ』って言われたので、そこで改めてここから半年死に物狂いでやりたいなと思いました」

――全日本決勝の相手は張本智和(智和企画)選手。試合前の心境はいかがでしたか。
 「特に3連覇っていう意識はなくて、自分としてはチャレンジャーの気持ちを持っていました。その前の週にカタールのドーハの大会で対戦してそこで負けているので、どっちかといえば僕は挑戦者だったのかなって。挑戦者の気持ちを持っていました」

――試合の振り返りをお願いします。
「立ち上がりとしては、第1ゲームは自分の方に流れを呼び寄せられて、いい調子でいいコンディションで決勝入れたなという印象があります。そこから徐々に追い付かれそうにはなったのですが、第1ゲームは取ることができました。第2ゲームは落としてしまったのですが、自分がやっていることは間違いはないなと感じていて、別に間違った戦術だったりとか気負うことのない取られ方だったので、そこまで不安なく第3ゲームに入りました。第3第4ゲームと自分の調子が右肩上がりでどんどん良くなっていって、全体的に見ても負けている部分は一切なかったので、優勝を意識はしてはなかったんですけど、やっていくうちにちょっとずつ優勝という2文字も頭の中に浮かんでしまいました。ただ集中力は切れずに最後までできたので、精神的に動揺はあったんですけどプレー自体は悪くなくて、第4第5ゲーム落としても第6ゲームしっかり取れれば優勝できるんじゃないかなと思っていました。第6ゲームに関しては10―9でそこで自分の得意な展開で決め切れず追い付かれてしまったのが大きな敗因なのかなと。何とかそこからマッチポイントは取っていたのですが、焦りからどんどん凡ミスが増えてきてしまって、それで自分の自信がどんどん欠けていったので、すごい優勢に見えた試合だったんですけど、精神的にはかなり追い込まれていた試合でした」
 

――観客席からの大勢の明治大学の応援は力になりましたか。
 「力になりましたね。3階席からでも声が届いていたぐらいの大声援を送ってくれていたのは試合中でも気づいていましたし、準決勝からずっと聞こえていました。どんなに競っても応援を力に変えれたので、すごいありがたかったです」

――第6ゲーム10―9の場面で、回り込んでフォアで決めにかかっていました。全農CUP平塚大会でも同じような場面ありましたが、決め方意識していましたか。
 「自分の持ち味、得意な技術はフォアハンドなので、最後は自分の得意なところで勝負したいなと思っていました。そこをミスしてしまったことで優勢に働いていた展開が崩れていったのかなと思うので、そこで決め切れないとダメだったのかなと思います」
 

――最後はブロックがオーバーで試合は終了しました。直後にはどんな思いが込みあげてきましたか。
 「試合直後は優勝できなかった悔しさよりも、また張本選手に負けてしまった悔しさの方が大きくて。今まで何度も選考会の中で対戦してきて、もちろん負けることはありましたけど、大事な局面で勝てなかった悔しさの方が大きかったので、まだまだ精神的に未熟な部分が多いんだなとそこでは反省というかそういう風にずっと考えていました」
 

――試合後張本選手にはどんな言葉をかけ、かけられましたか。
 「張本選手が言っていた通りなのですが、『おめでとう』と言って、張本選手から返ってきた言葉は『1位も2位も変わらない』って言われたんですけど『そんなことはないよ』と。勝ったが者が1位だし、負けた者が2位っていうのは変わらないっていうのはそこでは言えなかったんですけど『そんなことはない』としか伝えられませんでした。その後張本選手から『オリンピック頑張ろう』と言われました」

――見ていた観客の皆さんにとっては、この2人の試合を見て日本を引っ張っていくとのが頼もしいと思えるような試合内容だったと思いますが、いかがですか。
 「自分の中で最大限のベストパフォーマンスを出し切った結果が、あのようないい試合ができたのかなと思っているので、本当に世界の大舞台でもベストパフォーマンスを出せるようになれば、もっともっと世界のトップ選手に勝つことができたり、中国人選手に勝つことができたりするんじゃないかなと思います。自分をもっと分析してやっていけば、それこそ2人でオリンピックのシングルスのメダルを狙えるんじゃないかなと思ってます」

――張本選手のどんなところをリスペクトしていますか。
 「卓球に対する思いは人一倍強くて、自分の卓球に研究熱心というか、そういうところを尊敬しています」
 

――張本選手の存在はご自身にとってどんな存在ですか。
 「本当に切磋琢磨し合って、ここまで登り詰めてきました。今後も自分が卓球人生を送っていく中では常に隣や前にいる存在ではあるので、自分が成長するために大切な存在なのかなと思ってます」
 

――2人がこのパリ五輪という舞台では日本男子というところで同じチームです。どんな相乗効果を生み出せるとご自身では思っていますか。
 「自分が基本的に勢いで戦うプレースタイルなので、まず先陣を切って相手のエースだったり格上の選手に勝ってチームに勢いをつけたいと思います。自分の勢いを生み出すために、自分の置かれている立ち位置を理解して、自分がもっともっと強くなれれば、日本はもっと上にいけるチームなのでお互い持ってるものを最大限発揮できれば、必然的に勝てるチームかなと思ってます」
 

――選考レース中は周りから具体的にどんなサポートをしてもらっていましたか。
 「明治大学のチームメートには一番サポートしてもらって、選考会の練習相手についてきてくれたりとか、本当にいろいろサポートしてもらえたので、明治の卓球部の学生たちには感謝をしたいですね」
 

――五輪出場が決まって、オリンピアンになる自覚や実感はいかがですか。
 「特にないですね。自分が高みを目指すにあたって、オリンピック出場は通らないといけないところだったので、まずは出場することは自分の中では通過点だと思っていますし、まず一つの目標がオリンピックでのメダル獲得。そこを達成できれば、少しずつ実感できるんじゃないかなと思っています。メダリストになって初めて心から喜べるのかなと思っています」
 

――ズバリ、パリ五輪でのメダル獲得の自信はございますか。
 「現時点では自信あるって言えるほどではないんですけど、この半年間の行動だったり成績っていうのでおのずと湧いてくるものなのかなと思っています。張本選手も言っていたんですけど、この半年間の準備だったりとか一大会一大会の成績、結果っていうところがパリオリンピックにつながってくるので、現時点ではまだまだ自信は正直ないのですが、ただこの半年間でその自信を大きくさせていくことは必要なのかなと思っています」
 

――五輪に向けて、特別なスケジュールは組んでいますか。
 「大まかには組んでいて、基本的に国際大会を今後主に出場していって世界ランキングをまず上げていく。そして日本のチームランキングを、今月6位なんですけど4位以内に上げていかないとメダルはかなり厳しいものになってくるので最低限自分の個人ランク、まずは15位以内にいち早く入れるようにこの半年間やっていかないといけないなと思ってます」
 

――進路先が井村屋に決まった経緯はございますか。
 「井村屋さんは地元に本社があって、地元つながりでスポンサーをしてもらっていました。結果だったり自分のプレーしてる姿を見ていただいて、所属先に候補として出してもらえたので、本当に自分は地元が大好きで、地元に本社がある井村屋さんにサポートしてもらえるなら自分は所属として選びたいなと思っていたので、決まって本当に良かったなと思います」
 

――井村屋さんの商品で好きな商品はございますか。 
 「僕は本当に肉まんが大好きで、小さい頃から冷凍の井村屋の肉まんがあって、それをずっと3時のおやつで食べていました。本当にずっと食べていますね」
 

――ご自宅には井村屋さんの肉まんがありますか。
 「今はないんですけど(笑)、井村屋さんのもので言うとスポーツ用ようかんっていうのがあって、それを補食で今使っています。そうやって補食として使えるものをたくさん送ってもらっています」
 

――すでに退寮されたと思いますが、寂しさはありますか。
 「正直、1人暮らしは前々からしたいなと思っていました。ただ、寮は寮で本当に楽しい場所で隣の部屋には後輩だったり同期がいて、いつでも身近に誰かがいました。こうやって今1人暮らしして新しい地で住み始めて不安はあったのですが、 (これまでも)1人での生活が主だったので実際こうして1人暮らしをしてみると、案外寂しさはあまりないですね」
 

――寮生活の印象深いエピソードはございますか。
 「やっぱり寮生活で一番良かったなって思う機会は、例えば国際大会だったり国内大会で思うような結果が出ず帰寮した際に、どうしても誰かに話を聞いてもらいたかったりとか、悔しい気持ちで 1人でいれないなって時に隣の部屋だったり、仲いい後輩同期の部屋に行って食事に出かけたりっていうのがすぐできるのは本当に助かりました。それは寮じゃないとできないことだと思うので、思い立ったら仲間たちとすぐ外に出てリフレッシュできるのは寮の良さというか、 一つの思い出かなと思っています」

――同期の皆さんは戸上選手にとってどんな存在ですか。
 「本当に僕の代はみんな卓球が大好きで、お互い切磋琢磨して、こうして明治大学の伝統を引き継いで次の代にバトンを渡せられたのかなとは思います。注目してもらってる僕と宇田(幸矢・商4)と宮川(昌大・情コミ4)以外の他の3人(寺下拓海・商4、日置希音・文4、村松凜音・営4)も卓球がみんな大好きだし、卓球の話もよくしたり、食事も行ったりするので、やっぱこの6人じゃないと今の自分はなかったのかなと思うので、いい同期と巡り合えたのかなと思っています」
 

――1年時はコロナで大会が中止になる中、ドリームマッチが開催され、丹羽孝希(平29政経卒・現岡山リベッツ)選手とも対戦しました。1年次を振り返っていかがですか。 
 「本当にコロナ禍真っ最中で何も試合がなくて。ただOBの方々がドリームマッチを開いてくれて、一つのモチベーションを与えてくれたことに感謝していますし、丹羽さんとあそこで戦えたのも本当に大きな収穫だったなと思います」
 

――2年時は全日本大学総合選手権・個人の部(全日学)優勝、そして全日本初優勝でした。振り返っていかがですか。
 「大1でコロナの濃厚接触者の疑いで全日本出場できず悔しい結果でその年の全日本を終えたのですが、大学2年の時に昨年出場できなかった悔しさを前面に出し切って初優勝することができて、そして全日学も優勝できました。ただ、全てのタイトルを取りたかったのですが、インカレは悔しい結果になってしまいました。本当に楽しいこともあれば悔しいこともあったそんな喜怒哀楽のあった1年間だったなと思っています」
 

――3年時は明大でグランドスラム達成。全日本も連覇しました。振り返っていかがですか。
 「もう3年生はもう〝僕の時代〟だったのかなと思ってます。明治大学の大きな目標であったグランドスラム達成。そして全日本優勝。本当に全国の大きな大会を総なめできて明治大学は一番なんだっていうのをアピールできたのかなと思うので、国内でいえば僕の時代だったのかなと思っています」
 

――4年時は主将に就任しました。パリ五輪代表へ向けて選考会で戦う一方学生の大会には出場できませんでした。振り返っていかがですか。
 「全日本は優勝できなかったのですが、3年生の頃とと比べたらもう格段に成長できました。卓球もそうですし、私生活だったり、卓球の意識というところに対してすごく成長できた1年間だったなと思っています。特に秋ごろから国際大会の成績も伸びてきて、本当に全ての面で成長できた、一つ上の世界にワンステップ上り詰めた、そんな年だったのかなと思います。世界を見据えたいい年になりました」
 

――4年間過ごしてみて、明大はどんなチームですか。
 「やっぱり明治大学は日本一いい環境を持っているなというのは改めて思っています。人生で一番成長できた4年間で本当に楽しい4年間でした」
 

――4年間で学んだこと、得たことございますか。
 「まずは水野(裕哉コーチ)さんだったり、髙山(幸信)監督、(斎藤清)総監督、本当にたくさんの方が選手ファーストとして行動してくれて、選手として僕はこの4年間やりやすかったですし、結果だけを追い求めて卓球に集中できた4年間でした。もっともっと上の世界を見てもらいたかったんですけど、それはまた4月以降になるかなと思うので、3月までは悔しいですけどここまでの結果しか恩返しできなかったので、また今後も期待をしてほしいなと思います」
 

――ファンの方へのメッセージをお願いします
 「ファンの方々にはたくさんの応援だったり、励みの言葉をいただいて、折れずにここまでくることができたので、本当に感謝しかありません。自分が新しい世界を見せられるようにもっともっと頑張っていくので、これからも応援のほどよろしくお願いします」
 

――今後の目標や展望は具体的に何かございますか。
 「この半年間大切な期間になってくるので、パリ五輪までの目標としてまずは世界ランクを1桁にすること。そして海外の国際大会で優勝をすること。まずはその二つを目標にやっていって、そしてパリオリンピックでは金メダル。そこを狙っていきます。明治大学の言葉でもあるんですけど、『思いは叶う』という気持ちを持ってこの半年間パリオリンピックの金メダルだけを思ってやっていきたいなと思います」
 

――同期の皆さんに対してメッセージをお願いします。
 「たくさんの応援をしてもらえて、一番本当に気にかけてくれて、どこに行っても連絡をくれたりとか応援してるっていうメッセージくれた一方で、遊ぶ約束をしていたけど海外に行くことになったり突然試合になったりして迷惑をかけてしまいました。最後全日本優勝してみんなで写真を撮りたかったけどそれがかなわず、すごい悔しい気持ちでいっぱいです。ただ同期に対して本当に迷惑をかけてきた分、感謝しかないし、同期の5人は本当にかけがえのない仲間だなと思うので一生の仲間としてこれからも接してくれたらうれしいです」

――ありがとうございました。

[末吉祐貴]

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