
(74)第533号ラグビー明早戦特集号企画面拡大版 松尾雄治氏「何事もやってみなければ分からないということを学んだ」
今年度創部100周年を迎えた明大ラグビー部。私たちは「明大スポーツ第533号ラグビー明早戦特集号」発行にあたり、明大の著名なOB5名にインタビューを行った。本企画では紙面に載せきれなかったインタビューの拡大版を公開します。
第1回は松尾雄治(昭51政経卒)氏のインタビューをお送りします。(この取材は10月27日に行われたものです)
――明大ラグビー部の印象を教えてください。
「最初に北島先生に会った時に僕は学校に行ってなかった時期でどうしようもなくて、その時に『ラグビーが好きか』と言われて『はい』と答えたら『毎日来い。その代わり、自分の都合で理由つけて来なかったりしたら、もう練習はさせないぞ。絶対約束だぞ』と言われたんですよ。それからは毎日八幡山で練習して、すごく周りの人が優しかったです。明治の雰囲気は僕のやってきたラグビーからすると、みんなで仲良くやろうみたいなのが強かったからスパルタではなかったですね」
――初紫紺を1年生で遂げた時の心境を教えてください。
「運命を感じました。高校に再入学することを諦めていた僕は、北島先生が目黒学院高に話をしてくれて、梅木先生という先生に拾っていただいて、高校を経て、それから明治に行けました。だから、僕にとっては最初に北島先生に会った時にその道というのはある意味できていたのかもしれないですね。先生のスタンスが来るものは拒まず去るものは追わずという本当に自然体でした。だから、当時は目黒学院高だけではなくて、国学院久我山高、明大中野高とみんな練習に来ていたし、社会人で警視庁の第3機動隊の人たちもみんな練習に来ていました。そういった北島先生のラグビーをやりたかったらみんな集まりなさいというスタンスに僕は救われました」
――明早戦はどのような試合ですか。
「何よりもう雰囲気が違ってね。ラグビーの場合、早慶明という3つで、日本のラグビーが発達してきてきたところもあるから早明戦はものすごく人がいっぱいいたし特別だったね」
――当時の大学ラグビー人気はすごかったですか。
「そうだね。当時明治にはいい選手が多かったということもありますから、みんなが期待していたんじゃないかな。大学というのは強い時も弱い時もあるでしょ。だから、弱い時期に卒業した先輩はね、俺たちはできなかったけど頑張ってくれよという気持ちがあるんですよね。だから、すごく頑張りました」
――北島先生は大学ラグビー界にどのような考えを持っていましたか。
「他の大学だってみんな頑張っているのに、当時も収益が早慶明しかないからその試合だけに注力していました。そんなスタンスは駄目だと北島先生は思っていました。どこでもいいから試合をするんだという気持ちが常にありましたよ。正々堂々と戦うということしか考えていなくて、勝敗はあんまり関係ないんだよね。勝敗は、試合が終わった後に決まっているものだから試合に行くまでにどれだけ自分たちがやったか、どういう気持ちでやったかが大事なわけで。北島先生の言葉で二つ印象に残っている言葉があって、試合の時は『お前たち一人一人が審判だと思え』と。自分が審判だと絶対ずるいことしないですよね。そして、ラグビーが終わった私生活は『一人一人がこのチームのキャプテンなんだという気持ちで生活しなさい』と。キャプテンは他の人が寮の門限を破ったりすることをしないから。そういった言葉が北島先生の教えの本質だと思います」
――スタンドオフになって良かったところはどのようなところですか。
「スクラムハーフを元々やっていて、当時のスクラムハーフというのはただボールを回すだけのポジションだったんですね。でも僕はちょっと違って蹴ったり、走ったり、今のスクラムハーフのスタイルだったんですよ。普通の人よりもパス自体はすごく下手だったし、北島先生がこれからのことを見抜いていたんでしょうね。このチームで松尾はスタンドオフにした方が、チームのためになると。別にポジション変更に対して恨んではいないです。その後の人生もこのポジションでやったわけですし。でも子供の頃からずっとやってきたポジションで日本の代表にまでなったのに、3年生でいきなりポジション変えられて、当時は正直絶望しました。それでもそこしか自分のポジションはないと思い必死に練習したら結局、4年生の時に日本一になったんですよね。何でも一からの出直しということが人間にはあるんだと学びました。これは明治の学生たちにも言えるけど、今後自分が得意なもので社会に出て、会社でこういうのが得意なんだと言って入っても、人事課に違うところに回されることはあるでしょ。その時に自分はそんなことはできないよって言ってしまったら、そこで終わりです。僕なんかそれの最たるものだったから、最初は何もできなかったの。それでも、そこをコツコツやっているとできるようになったんですよ。本当に一からの出直しというのが人生で必ずあるし、その時にふてくされず『よし一から出直し。やってみよう。やってみなきゃ分からないじゃないか』という気持ちに僕をさせてくれたのは、北島先生のポジション変更でしたね」
――北島先生はどのような存在ですか。
「本当に北島先生がいなかったら、ラグビーはできていなかったです。恩人は誰ですかと言われたら、北島先生ですよね。自分たちが木としての人生と考えた時に、生まれて芽吹いてきて、大きくなってきた時に、枝ができますよね。枝ができる時って、どっちへ行くかと迷うと思います。どっちを選ぶかで間違えると、小さい枝の曲がった方向へ行ってさ、それで終わっちゃうこともあるし。だから、人生はことごとく曲がり角に遭遇し、その時に一番悩むわけですよ。自分の場合は、どうしようかなという時に、周りの人に支えられて『こっちがいいよ』と言われてやってきて、僕はその木の真ん中をずっと上まで来られて、最後を終われたんだなと思うんですよね。途中で全然違った方向へ行っちゃったかもしれない。そういう意味では、北島先生が僕を正しい枝へと導いてくれましたよね」
――北島先生の名言である『前へ』はどのように捉えていますか。
「先生は確かにボール持ったら『前へ行け』というのはよく言っていました。でも『迷ったら前へ行け』、『一歩でも前に進みなさい』というのはラグビーに限らない教育論ですよ。今でも、自分が悩んだ時に『よしやってみよう。前へやってみよう』といつも自分で思っているの。『やってみなきゃ分からない』という言葉が僕の人生です。北島先生が背中を押してくれているなといつも思っています」
――明大ラグビー部での経験が生きることはございますか。
「明大ラグビー部だけじゃないんだけど、ラグビーから得たものとしては、正々堂々とやることです。自分がどうやったら得するかは考えないようにしています。誰にも文句言われないとう状況が一番いいと思うんですよね。だから、いつもみんなに大きな声で『おはよう』と、帰る時は『さよなら』と言って、気持ちのいい人生を歩んでいますよ」
――100周年を迎えられた明大ラグビー部への思いを教えてください。
「チームとしてどう戦おうか、どういうことをしようか、そういった意思疎通が明治大学は昔からあんまりないんですよ。指導者が細かいことを言わないのが明治だと言ってる先輩がいっぱいいてね。でも、これからはみんなで戦う前にこうやって戦おうと仲間で自主的に考えて意見交換をしながら行うということがこれからの明治大学に僕は必要だと思うんだよ。何も話さないでそのままやるのではなくて、みんなで一人一人のことを考えるってことだよね。そのために寮生活しているのだから『あいつ今日調子悪そうだな』『何で調子が悪いんだろうな』ということを思いやる気持ち、そういうものはやっぱり必要だと思うんですよね。自分を犠牲にしてでも、人のことを助けるんだという気持ちを忘れないでほしいと思うんだよね。僕自身、1年生の時に具合が悪くなった時も4年生のマネジャーさん夜中までいて『大丈夫か』と言ってくれて、そういうこともよく覚えているし、みんなで助け合って生きていこうというものは明大ラグビー部の中に大きくあってほしいですね」
――ありがとうございました。
[井垣友希]
◆松尾 雄治(まつお・ゆうじ)昭51政経卒。1954年1月20日生まれ。東京都出身。
明大卒業後は、新日鉄釜石に入社。スタンドオフとして、日本選手権7連覇を含む優勝8回に導くなど主力選手として活躍。現役引退後は、2004年から2012年まで成城大で監督も務めた。
関連記事
RELATED ENTRIES