(97)大学野球引退インタビュー 大川慈英投手

2025.12.04

(この取材は11月29日、電話にて行われました)

大川慈英投手(国際4=常総学院)
――大学4年間を一言で表すと、どんな時間でしたか。
 「両極端だったなとは思っています。いいときは本当にちゃんと抑えられて、悪いときはもうとことん駄目だったので。どっちかっていう感じでしたね」

――明大に進学を決めた理由は何でしたか。
 「一番はプロ野球選手の輩出というところで決めました。プロ野球選手になるために来たという感じはありますね」

――明大が毎年連続でプロ輩出できる理由について、どうお考えですか。
 「そうですね。やはり毎年(プロに輩出する選手が)いて『これぐらい結果を出せればプロ野球選手になれる』という明確な基準が毎年いることも大きいのかなと思います」

(グラフは10月30日、別件での取材時に直筆で記入いただいたものを基に再編したものになります)

――高い位置からスタートされていますね。
 「そうですね。甲子園は行けなかったのですが、高3の夏で防御率0.00で引退ができて、ある程度いい気持ちで終えられましたね。(大学入学後は)みんないいピッチャーで先輩も『やっぱりすごいな』とは思ったんですが、それでもその時はまだある程度の自信もありましたね」

――1秋で下降しているのがポイントでしょうか。
 「フレッシュトーナメントで登板して抑えていたんですが、アクシデント降板をしたので下げています。ここで1、2週間ほどノースローの休養をして、復帰明けの2春のフレッシュで一気に最高球速を更新しました(152km/h)。2秋にはリーグ戦デビューをして、9イニングで多分自責点が1だったんですよね。防御率1.00で『これ結構通用すんじゃね?』みたいな(笑)」

――ただその後に急下降となっています。
 「『あれ、春あんまり良くないな』というのでだんだん沈んでいって、3秋は防御率8.22で終了して(笑)。4春はまだ少しは自信が持てるようになってきたんですが、完全に自分で自信を持つところまでには行かないので、ここら辺ですかね。4春が始まったときはここ(中央部付近)なんですが、一度またここで下まで下がってから(リーグ優勝の現在の高さ)ですね(笑)。ケガがあって、進路もあったので『もうどうしようかな』と思っていました」

――モチベーショングラフでもターニングポイントが一点にあるというより、復帰とケガが交互に来るような、山あり谷ありの4年間に見えました。ご自身ではどう感じていますか。
 「本当にその通りですね。最初、ちょっと良かったなと思えば一気に落ちて、そこからどうにか上がっての繰り返しで、結果的にすごく成長できたので。あと、自分のこともすごく知れたと思っています。そこまで行かないと分からなかったこともあると思うので、全てがネガティブというわけではないんですが、あそこまでは行きたくなかったなという感じはあります(笑)」

――ただ、その中でも粘り強さなど収穫は大きかったのかなと思います。
 「根本的に野球に対して考える時間、練習量もですが、本当に全てにおいて野球に関連した何かをやるとか、野球に使えそうなことを日常で考えるようになりました。完全に駄目になってからだったので、そういう意味では野球人としてかなり成長できたと思います」

――この4年間で「これは自分の性質だな」と気づいた軸のようなものはありますか。
 「一番は『自分ってこんなに他人に興味がないんだな』というのはすごく思いました。悪い言い方をしたらそうなりますが、いい言い方をすれば、自分への集中力というのは他人よりもすごくあるなと感じています。誰かがいないとできない、というのは全くなく、どちらかといえば一人で(進んでいく)というのが結果的に合っていたというのが分かりました」

――プロに進んでも、この自分との向き合い方のようなものは変わらないのでしょうか。
 「そうですね。もうそこはこれまで以上に強くというか、ここからは仕事なので。これまで以上にシビアに、もっとしっかり自分と向き合って。考え抜くしかないなと思っています」

――大学生活で影響を受けた先輩を1人挙げるとすれば、どなたですか。
 「2歳上の、石田朗(投手兼マネジャー・令5政経卒=明治)さんという方です。引退する前に最後の同部屋としてお願いしました。リーグ戦の主戦として活躍するような方ではなかったんですが、選手兼マネージャーを途中から打診されて。神宮でマネージャーとしてベンチに入った後も、それでも『選手として出たいから』と、帰ってきてからランニングしたり練習をしたり、かなり遅くに部屋に戻ってきていました。そういうところで姿勢というか、練習との向き合い方っていうのは、その方から学んだと思います」

――逆に、この人と高め合えたというライバル的存在はいますか。
 「投手陣の同期全員と言いたいところです。本当に誰かがリーグ戦で投げて、少し離脱したらまた違う人が出てきて、というのをずっと繰り返しました。やはりみんなそこは直接じゃないですが、意識はしていたのかなと思います。その結果としても、かなり自分が成長できたのかなと思います」

――朝型の生活サイクルで、4年間で身についたことはありますか。
 「自分はもう完全に朝やってしまう方がいいですね。ただ、あまり自分的にはそういうの(生来の朝型・夜型というタイプ)がなくて、生活次第で対応できる方なんです。実際1日を効率的に、となると自分は朝やった方がいいのかなと思っていて、それは結構4年間で染みついた部分ではあるかなと思っています。全体練習は8時スタートで、今もちゃんと出ているんですが、いつも6時半には起きる、という感じになっています。朝は初手が大事で、一発目で布団の上でゴロゴロするから動けなくて。アラームが鳴った瞬間に動く。この4年間で起き方については完全に熟知しましたね(笑)」

――この4年間で、やり切ったこと、心残りだったことを教えてください
 「ほとんど心残りなのですが、同期の投手が7人いて。ちょうどリーグ戦のベンチ入りの投手の数も7人なんですよね。なので同期7人でその枠を埋めるというのは、密かな目標としてありました。あとは主戦というか、スポーツ推薦で入った5人が全員同じように活躍できるシーズンはなかったので、そこは心残りかなと思います」

――後輩たちに伝えたいメッセージはありますか。
 「自分が最後の1年で少し良いパフォーマンスができたのは、本当に質も大事ですが、量をやったからだと思っています。そこは『自分が考えるよりも1回でも多くやれば、何かいいことがある』と思うので、そこはみんなに妥協せずやり抜いてほしいと考えていますね」

――野球以外で、社会人としての目標や夢はありますか。
 「中学生時代から勝手に考えていたのは、30代のうちに一生で使いきれないくらいのお金を稼ぐということですね(笑)。もともとは別に野球に限らずと思っていたんですが、こうなったらもう野球で稼ぎたいです」

――ありがとうございました。

[松下日軌]