
(1)広島東洋カープ・野村祐輔コーチインタビュー拡大版/新歓号特別企画
明大スポーツ第545号(新入生歓迎号)1面にて、野村祐輔コーチ(平24商卒、現広島東洋カープ3軍投手コーチ兼アナリスト)を特集しました。2月16日に行われたインタビュー内容のWeb拡大版になります。
――キャンプからコーチとして1軍に帯同されていますが、いかがですか。
「難しさというのもありますけど、楽しくやらせてもらっています」
――指導していく中で、どのようなところで難しさを感じますか。
「そうですね。指導するということで、まずはコミュニケーションをしっかり取るというところが大事かなと思ってます。そういったところをしっかりとできていかなければいけないところが難しいですかね。近づきすぎず遠すぎずといううまくいい距離感を保ちながら、選手とコミュニケーションを取っていけたらなと思います」
――今の時代のこの野球界においての指導者に求められることは、どのように感じられていますか。
「全てバランスだと思います。どの方向に対してもうまく、近づきすぎてもだめですし、遠すぎてもだめです。本当にバランスを取りながら、やっていくことがすごく大事かなと思います」
――野村コーチが指導する上で理想の指導者像はありますか。
「こちらから一方的に行くのではなくて、選手から声を掛けてもらったり、選手側から来てくれたりする方がこちら側もうれしいです。そういったところですね」
――改めて明治大学に入学を決めたきっかけを教えてください。
「高校まですごくレベルの高いところで(野球を)やらせてもらって、大学に進学してもやはり日本の大学野球界のトップレベルで野球がしたいという思いで明治大学への進学を決断しました」
――上京した当時の心境は覚えていますか。
「そうですね。田舎から来たので、全く景色が違うというか、本当に新たな場所に来たなという感じで、すごく新鮮でした。なかなか馴染むことに時間はかかりましたけど、やはり野球をやっていきながらみんなとも仲良くなったりして、いい4年間を過ごせたかなと思います」
――実際に生活を送ってみて、想像していたものとのギャップなどは感じましたか。
「ギャップというのはあまりなかったですが、人の多さには少しびっくりしました」
――広陵高から明大に進む選手も多くいます。プロで活躍する選手との交流もやはり多かったのでしょうか。
「そうですね。高校の後輩、大学の後輩もやはり多いので、気になります。毎年のように広陵から明治に選手が入学しているので、気になりはしますね」
――同じ広陵高出身の選手に対してはライバル視していましたか。あるいはお互いを刺激し合うような感じだったのでしょうか。
「ライバルという感覚はないですけれど、頑張っているなという感じです」
――広陵高と明大に共通する野球観や似ている部分というのはあったりするのでしょうか。
「やってきたことは同じなので、感覚というのはよく似ていると思いますし、しっかりと高校の3年間、大学の4年間で鍛えてもらっているので。しっかりした選手が多い印象です」
――具体的に似ている部分はどういうところで感じられましたか。
「(野球のプレー)スタイルですかね。派手というわけではなく、何か泥くさいというか、こう地道にやる部分です。(そういったところが広陵の良さ、強みだと思いますか。)そうですね」
――大学生活を通して、印象に残っている出来事はありますか。
「野球を通じて、明治の学生さんであったり、OBの方やOGの方というのがたくさん神宮に足を運んでくださって、応援してくださるのを目の前で感じていますから、本当にありがたいなの一言です」
――入学時、大学の4年間でどのような活躍をするビジョンを持っていましたか。
「高校の時に日本一を逃して大学に入学したので、なんとか大学では、高校での悔しさを晴らすというか、日本一を取りたいという一言ですかね」
――高校3年時、夏の甲子園での決勝で敗れたというのが、大学1年生の春からの即戦力としての活躍につながったという感覚はありますか。
「もちろんありますし、入学する以上はもう1年生から試合に出るつもりでいました。高校野球を引退しても練習は欠かさず続けていましたし、大学に上がって自分の年になって頑張るのではなくて、1年生の時から4年間フルにやるという思いはありました」
――4年間を通して活躍し続けるというのは本当に難しいことだと思うのですが、活躍を維持するために意識していたことや、やっていたことはございますか。
「特別にやっていたことはないです。ですが、精神的部分ではやはり負けないようにというのはありました」
――1年秋には防御率0.00という圧倒的な数値で最優秀防御率のタイトルを獲得されました。どのようなシーズンでしたか。
「春にいきなり優勝できたので、少し浮かれていた部分はあったのですが、自分のできることを一生懸命やったという感じです」
――2年時からはエースナンバーの11を背負っていたと思います。この〝11〟の重さやプレッシャーは感じていましたか。
「自分が1年生の時の4年生のエースの人が卒業されて、ピッチャー全員で争うことになった時に、エースを取るチャンスだと思っていて、2年生の時から狙っていました。『自分が背負うんだ』という気持ちでした」
――善波監督(当時)のコメントから、すごく信頼をされているように感じられました。そのような感覚はございましたか。
「そうですね。善波監督から言われていたことは『僕が失敗をする経験が、善波監督の失敗の経験』というふうにおっしゃっていて。自分が成功させることで、チームの成功を作っていくと感じていました。そういうところで、やはりすごく信頼していただけているのだなというのは感じていました」
――野村さんが入学された時に、善波監督(当時)は就任1年目でした。野村さんの活躍や失敗によって野球部の育成方法に変化があったとインタビューでも仰っていました。そのように感じた出来事はありますか。
「あります。自分が2年生の時に、脱水症状になって、それでチームが負けてしまった時に、栄養士の先生をチームに入れてくださったり、そういう自分の失敗でチームの考え方が変わったところはありました」
――メンタルトレーナーを導入されたというのも野村コーチがきっかけですか。
「それはどうか分からないですが、メンタルトレーナーさんのこともありました」
――善波監督が「2年生の夏のアジア選手権から帰ってきて、野村コーチのスイッチが入っていた」と当時仰っていました。それはご自身としても意識が変わった出来事ですか。
「そうですね。その時が大学入学してから初めての日本代表になったのですが、やはり周りのレベルだったり、そういうところを見て感じて『このままじゃ駄目だな』というのも感じましたし『上には上がいる』というのも感じたので、その辺から少し(意識が)変わりました」
――特に刺激を受けた選手などはいらっしゃいましたか。
「同級生だと菅野(智之投手・現オリオールズ)ですかね。今アメリカのメジャーリーグに行きましたけれど、菅野であったり、同級生の姿というのは刺激になりました」
――4年時には神宮大会で念願の日本一を達成しました。その瞬間というのはどのような気持ちでしたか。
「やり切ったという感じです。ここで獲らなければチャンスはなかったので『なんとしても』という気持ちでやりました」
――プロ選抜との試合では前田健太投手(現デトロイト・タイガース)のピッチングを見て「これがプロか」と感じたそうですが、特にどのような部分で感じましたか。
「もう投げているボールですね。僕は三塁ベンチで見ていたのですが、少しレベルが違ったので。プロの一軍で投げるというのは、これぐらいでないと投げられないのかというふうに感じました。そういう人たちと勝負できるようにという気持ちになったのは、その時です。初めてプロ野球を目指すというか、(プロ野球選手に)なりたいと思った時です」
――そこから練習の方法の変化や練習に対する意識というのはどのように変わりましたか。
「妥協はしなかったですね。これでいいやと思うことはなくなりました」
――ホームランボールを両親の結婚記念日にプレゼントされたという話がありました。その当時のことを覚えていますか。
「確かその日が両親の結婚記念日だった気がするので、送ったのを覚えています」
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