(148)【第543号特別企画】田島公太郎×溝上稜斗 対談インタビュー 後編

2024.12.15

 九州学院高時に主将を務めた溝上稜斗(商4=九州学院)と副将として支えた田島公太郎(慶大)。大学でも良き友人でありライバルとして互いに切磋琢磨(せっさたくま)し合ってきた。今年度、溝上は明大で唯一関東学生連合チーム(学生連合)に選出されたが、田島も大学1年時に学連チームとして箱根駅伝(箱根)7区の出走経験がある。今回はこの2人の高校時代や箱根に対する熱い思いについて語った対談インタビューをお届けする。

(この対談は12月4日に行われたものです)

――高校時代の一番の思い出を教えてください。
田島「部の教えが文武両道でした。『高校生だから、スポーツばかりやっているだけじゃ駄目なんだ』という教えでした。それを正直に解釈した僕たちは高校3年生の間、席替えで教卓の一番前の席を占領していました。みんなからはありがたがられていたんですけど (笑)」

――その効果はありましたか。
溝上「テストは毎回クラスで1位か2位だったし『授業中絶対に寝るな』って言われていて、 一回も寝ていないよね」

田島「本当に寝ていないです」


――練習も毎日ハードでしたか。
溝上「朝5時に起きて夜は10時過ぎぐらいに寝て、昼間は全く寝られない生活をしていました」

田島「僕は寮に入っていなくて、家から通っていました。家は寮に住むエリアに含まれていましたが、僕は一人の空間が好き過ぎたので意地で通っていました。4時半に起きて、家に帰るのが夜の10時前後だったので寝るのは12時手前でした」

溝上「今思えば考えられない。そりゃあ授業中、眠くなるよね(笑)」

田島「精神面は誰に対しても偉い口を叩けるぐらいに鍛えました(笑)」

溝上「禿(雄進)監督の教えで24時間がトレーニングだと言われていました。一日に練習は4時間あり、残りの20時間の過ごし方で(競技の結果が)変わると言われていて、そこを大切にしていました。レースの大事な場面で妥協するかしないかは授業中の眠い時に妥協して寝るか、我慢して寝ないかという日頃の積み重ねであって、それが一番きつい時に出ると毎日言い聞かされていました」

――お互い東京の大学に進学されました。
田島「慶大はスポーツ推薦がなくAO入試を受けました。コロナ禍だったので、試験の一つが『自分をプレゼンテーションするビデオを作成してください』という内容でした。インパクト重視でやろうと思って、慶大の応援歌である若き血の楽譜を書いて、トロンボーン四重奏を(自分で)演奏して、それをBGMで流しながら陸上のユニホームを着て大学でどのような研究をしたいかについてスライドを用いて話しました」

溝上「いきなりその動画がLINEで送られてきてやばいって思いました(笑)」

――大学ではどれぐらいの頻度で会っていましたか。
田島「大会では結構な頻度で会っていました。たまに溝上が出る試合をわざわざ見に行くこともありました」

溝上「学生連合の選考を兼ねた10000メートル記録挑戦競技会にも来てくれました」

田島「彼を見にわざわざ相模原まで(笑)。昨年度のMARCH対抗戦は何も知らずに見に行ったら、バスがなくて帰れなくなりました。僕もライバルとして認識しているので、会わなくてもずっと結果を追っていたし、その分応援もしていました。彼を意識することで、競技面で刺激を受けていました」

――大学でのお互いの走りを見ていかがですか。
田島「お互い爆発的に伸びた方ではないんですよ。いろいろな予選会に出走して入賞したり、選抜されて成績は残しているのですが、僕は全然いいタイムを持っていなくて。だからこそずっと切磋琢磨(せっさたくま)し合えたと思いますし、これからもずっと競り合っていきたいと思います」

溝上「1年の時に田島が箱根を走ったことが大きいです。やはり箱根を目標にしていたので、それを彼が1年目から実現したことが刺激になりました。ハーフマラソンで学生トップクラスの結果を残しているし、ずっと(田島を)目標にしていました」

――田島選手は1年時に学生連合に選出されました。
溝上「それこそ決まった瞬間、田島に連絡してアドバイス聞いたよね。どうだったって」

田島「彼が走るのであればちゃんと結果を残してこそ初めて価値が生まれると考えています。『とりあえず体調は絶対崩すな、ケガも絶対するな』というアドバイスをしました」

――明大が箱根駅伝予選会を通過できなかったことはどのように見ていましたか。
田島「そりゃあ慶大も無理だと思いました(笑)。ずっと意識して箱根を見始めた時から、明大は箱根にいるのが当たり前だったので、明大がいない箱根は寂しいです。だからこそ、来年度以降、紫紺が返り咲くにあたって今回の彼の走りがカギになってくると思います。後輩からも慕われているらしいですし、後輩たちに何かを残す走りをしてほしいと思います」

――箱根はどういう大会ですか。
溝上「箱根は陸上を始めるきっかけであり、今でも一番の目標です」

田島「僕は帰るべき場所だと4年間ずっと思い続けていました。(箱根では1年時に)7区を走ったのですが、僕の適性から考えて納得できる区間ではなかったです。今後4年間、大学でキャリアを築いていく第1段階としての1年目の箱根だったのですが、結局走っただけの大会になってしまいました。だからこそ、それを僕の人生における唯一の箱根の思い出にしたくなかったので、帰るべき場所だと設定していました。それがかなわなかったので、その夢は溝上に託しました」

――お互いの強みはどこだと思われますか。
溝上「メンタルの強さと、周りを巻き込む力です。僕は今年度(チーム内で)そこが少し弱かったなと思っています。特に同期を巻き込めなかったことが反省点でした」

田島「一つは愛される力だと思います。見るからに人がいいし、ちゃんと話すと中身までいいやつなので、誰からも愛されますし、すぐ仲良くなれます。本人は『巻き込む力がなかった』というふうに言いますけど、能動的に巻き込む力がないだけで、巻き込もうとしていなくても自然と人が付いてくるような人格を持っていると思います。そして、腐らない力がある。1年目から活躍していた高校時とは対照的に大学1、2年時は納得できる陸上生活ではなかったと思いますが、大学4年間は本当に心境や環境の変化が大きいです。逃げようと思えばいくらでも楽な方向に行けると思いますが、それでも腐らずにやり続けているところは心から尊敬できます」

――東京では何をして遊んでいますか。
田島「この前、高校の同期で集まったんです。高校時は遊ぶとかじゃなくて、走ってしかいなかったので、みんなで練習後に食事するぐらいでした。もう僕らの体力は限界値を迎えていたので(笑)。食べ放題で元を取れる集団だったので、しゃぶしゃぶのチェーン店に3年間ずっと行っていました」

――同期の仲はいいですか。
田島「仲はめちゃめちゃいいです。東京に来てないやつらも熊本に帰ったら仲良くしています。どんな大学生になるんだろうなと思っていたんですけど、この前東京に来てまでしゃぶしゃぶ食べに行きました。お昼にお酒を1滴も入れずに食べ放題を食べていて『何も変わってねぇじゃん』って」

溝上「マジで何も変わってなかったね(笑)」

――二人とも方言を使わないんですね。
田島「彼はなくなりましたね。熊本で話している時は訛りがすごかったです。『~ばい』とか『~だけん』て言っていた時期ね。僕はそもそも訛りがそんなにないんですけど。だから彼から方言がなくなってそこはちょっと寂しいです」

溝上「訛り過ぎて田舎っぺって言われていました (笑)」

――お互いの裏話を教えてください。
溝上「九州学院高って合宿や遠征のバス移動では助手席に主将が乗るんですよ。バスの中で寝てはいけないので、助手席の主将がめちゃくちゃつらいんです。だけど、本当は僕がそこに座らないといけないのにケガで遠征に行けなかったので、ほぼずっと田島が座っていました(笑)」

田島「やばいですよ。マジで6時間とか(笑)」

溝上「めっちゃ眠くなる昭和の音楽流れてる(笑)」

田島「高校3年時の夏前に週末だけ阿蘇に行って、少し強度の高い練習をする週合宿がありました。彼はその期間もほとんどケガで走れていなかったので、付いていくことがやっとみたいな溝上らしからぬ走りでいつもいたんですよ。いつも通り僕や鶴川が集団を引っ張っている中で、彼が集団から今にも離れそうな感じでした。九州学院高ってお互いに声を掛け合っていて『ここ付くぞ』とか『ここで離れてどうすんだよ』というふうに言い合っていました。僕はその言葉を溝上に言おうと思って『溝上!』って言って振り返ったら、溝上が泡吹いてました(笑)」

溝上(笑)

田島「走っていたけど、そこに意識はなかったです。絶対に走っていいような体の状態ではないけど本当に蟹ぐらい泡吹いて走っていて、普通に声を掛けるつもりで振り返ったんですけど『泡吹いてるぞ』ってなって全員そこで『え』ってなって練習が一回止まりました(笑)」

――九州学院高で変わったルールなどありましたか。
田島「パンを食べることが駄目なんです。基本的に炭水化物は米から摂取するみたいな感じでした。麺類も駄目でしたね。でも禿監督が好きだからって理由で餡パンはオッケー(笑)」

溝上「餡パンオッケーは謎だよね」

田島「それを真に受けて、僕たちは餡パンは食べていました」

溝上「あと、昼休みも走ったよね」

田島「禿監督から『ペースはそんな速くなくていいから、1キロ4分ペースでいいから』って、普通のペースなんですけどね。高校って、昼飯も昼休みも全部一緒で40分なんですよ。準備とかで走る以外に10分取られて、走るのが20分。昼休みは残り10分しかないです(笑)」

溝上「飯食って」

田島「それ終わったらもう即授業始まるんで」

溝上「しかも寝ちゃ駄目で」

田島「正しいことであって悪いことではないのですが、当時の高校生活を振り返るとありえないことも全部真面目にやっていたなと思います」

――大学では高校時代に厳しかった反動はありませんでしたか。
溝上「逆にそれだけ基礎ができていたと言いますか、陸上に対してのマインドができていたからこそ、大学である程度自由になったとしても自分で考えてできていたかなと思います」

田島「九州学院高も強豪校ですが、厳しいところはもっと厳しいと思います。多分そこまでいくと言われてるからやるになってしまって、ただの縛りになるんです。だから大学に行くとその反動もあると思います。ですが、禿監督は愛のある指導者で『ただやれ』って言わずにどうしてこれが必要なのかを教えてくれます。例えば『お前らの敵はクラスメイトと親だ』と言われますが、ただ言葉だけ聞くとひどいじゃないですか。でも『自分たちを甘やかすのがクラスメイトと親なんだ』ということをしっかり分かった上で(友人や家族と)接して、いかに自分を自立させるかが大事だと伝えてくれます。僕たちは別にそれを縛りだと思っていません。だから、その反動で自由な方向に行かずに陸上選手としてふさわしいことをしないといけないというマインドを作ってもらいました」

溝上「『自立と自律』ってめっちゃ言われていたよね。自分で立つと自分で律するが大事だって」

――最後にお互いにエールをお願いします。
田島「高校時からいろいろな誘惑に負けず、自分の信念を貫く姿にずっと刺激を受けていました。それは大学4年間でも同じです。僕の夢(慶大として箱根に出場すること)はかなわなかったけどその夢は溝上稜斗に託します。頑張れ!」

溝上「大学1年時に田島が学生で箱根を走る姿を見て自分も4年間頑張って箱根を走りたいと思っていました。田島がずっと『チームとして箱根に出たい』と言っていて、それはかなわなかったんですけど、田島の分もしっかり走って、結果も残したいです。そして、田島に胸を張って『箱根路楽しかったよ』って言えるように頑張ります」

――ありがとうございました。

[原田青空]

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