
(147)【第543号特別企画】田島公太郎×溝上稜斗 対談インタビュー 前編
九州学院高時に主将を務めた溝上稜斗(商4=九州学院)と副将として支えた田島公太郎(慶大)。大学でも良き友人でありライバルとして互いに切磋琢磨(せっさたくま)し合ってきた。今年度、溝上は明大で唯一関東学生連合チーム(学生連合)に選出されたが、田島も大学1年時に学連チームとして箱根駅伝(箱根)7区の出走経験がある。今回はこの2人の高校時代や箱根に対する熱い思いについて語った対談インタビューをお届けする。
(この対談は12月4日に行われたものです)
――他己紹介をお願いします。
田島「文武両道を体現したような人物です。 高校時から彼が主将、僕は副将を務めて二人三脚でやってきたので、信頼する男です」
溝上「高校の同期が9人いたのですが、ちゃらんぽらんしかいなかった中で、唯一しっかりしている人です。中学は吹奏楽部(トロンボーン)で、高校から陸上を始めたという変わった経歴の持ち主です。高校の最初はケガばかりで苦しんでいて、ずっと努力してきたことを見ていました。高校3年時にめちゃくちゃ強くなって一気に置いていかれて、大学ではロードで全敗、トラックで全勝という感じでした。ハーフマラソンで勝ちたいとずっと言っていましたが、背中を見ることもできていないです。ライバルと言っていいのか分からないのですが、競技をやってきた中で一番意識している選手です」
――第一印象はいかがでしたか。
田島「初めて僕が彼を認識したのは高校に入る前です。熊本県中学校駅伝(県駅伝)が終わった後、当時のチームメイトから(溝上を)紹介されて、名前は聞いていたので『これが溝上か』と思いました。足が折れていたのに1区を走って、彼的には納得のいっていない結果なのかなと思いました。客観的に見ればすごく健闘していたので、もしかしたらやばいやつが来年度から一緒のチームになると思いました」
溝上「その大会の1区区間賞が鶴川正也(青学大)で2区が田島でした。表彰式でずらっと並んでいる姿を見た時に、鶴川のジャージーにサッカー部って書いてあって、その横に吹奏楽団と書いてあるジャージーを着ているやつがいて『なんだこいつ』と思いました。変なやつらばっかりだなみたいな(笑)。2人とも区間新記録を出していて、めっちゃ速いなということが第一印象です」
――お二人とも高校から陸上部に所属しました。
溝上「僕はクラブチームで陸上の練習をしていましたし、野球部だったので基礎的な体力はありました。ですが、彼は県駅伝以外運動をしていなかった上に、九州学院高の練習はハードでした。当時の彼は体は弱いけど、メンタルはめちゃくちゃ強いので、限界まで追い込んですぐケガするみたいな。そういう感じだったよね?」
田島「そういう感じです(笑)。それとは対照的に彼は入った瞬間からすごく活躍していて、県の大事な大会も1年生の時から出ていました。学年を率いる記録を最初から出していて、鶴川もずっと裏で悔しがっていました。(九州学院高は)熊本のトップ集団なので熊本を率いるような選手でした」
――高校2年時の全国高校駅伝(都大路)を振り返っていかがでしたか。
田島「あの都大路は楽しかった」
溝上「(都大路の予選である)県駅伝で負けて、そこから全九州高校駅伝で大会記録を更新するタイムで優勝して(南九州代表として都大路を走って)全国4位でした。めっちゃ楽しかったです。確か県駅伝はケガで僕は走ってないんですよ」
田島「僕もケガで走ってないです。直前で禿(雄進)監督からめちゃめちゃ怒られました(笑)」
――お二人が出場できなかったから、県駅伝で優勝できなかったんですね。
田島「県駅伝を走らなかったこと自体はそこまで怒られませんでした。でも、県駅伝で負けてしまったので『お前らのせいだ』とすごく怒られました。だから『足が折れても走ります』って言ったじゃんと思いました(笑)。そういうこともあって、都大路に懸ける思いが違いました」
溝上「都大路は完璧なメンバーだったよね」
――チームの主将、副将として何かチームを変えた部分はありますか。
田島「高校3年時に新型コロナウイルス感染症が始まって、ぎりぎりまでチームで集まって練習しようとしていました。ですが、社会情勢もあってそれぞれの地元に散って練習することになりました。これまで主力として頑張ってきた人はちゃんと練習をやりますが、できない人は本当に練習ができません。それを危惧した彼がLINEで喝を入れて、チームが引き締まりました。それで雰囲気が変わって、練習の一環で行った記録会でも結果が出て、この自粛期間もそれぞれがやることをやったんだなということが分かりました。そこからスムーズな流れで夏合宿に入って、県駅伝に向かえたことは彼の功績だと思います」
溝上「当の本人はその時期に練習をやり過ぎてケガしたんですけど (笑)」
――溝上選手は3年時に1年で3度の疲労骨折を経験しました。一番近くで見ていてどのように感じていましたか。
溝上「1年時と立場が真逆だったよね」
田島「1年時は僕が(ケガで)毎日歩いて練習を見たり声掛けをしていて、3年時は僕がずっとチームを引っ張っていました。僕もたどってきた道とは言えども、3回もケガするなよと(笑)。レース直前に骨折を繰り返していたのでばかだなと思いつつ、焦って走り過ぎる気持ちがよく分かりました。だからこそ、止めてあげられたら良かったなと思います。まあ何回止めても聞きはしなかったんですけど、僕だからこそ言える言葉があったと後悔した記憶があります。でも、そこで感情を全く出さずにチーム全体の士気を上げようと動いてくれた姿勢を見て、主力の選手もラストイヤーの3年生も全員で頑張ろうと同じ方向を向くことができました。そのベクトルをそろえてくれたのは彼ですし、全然走れていなくても主将としての役割を全うしてくれたと思います」
――田島選手が副将で良かったと思う瞬間はありましたか。
溝上「県駅伝でエントリーから外れた時にLINEで『主将を都大路に連れていくから』と言ってくれたのが田島でした。それがすごくうれしかったし、実際にそういう走りを見せてくれました」
――そのメッセージを送った意図はありますか。
田島「当時は大事な大会に出る選手に対して、前日の夜にメッセージを送ることがルールでした。一番集中したい時ですけれど、それが伝統でした。多分その流れで彼から僕にメッセージが来て、それに応えた形だと思います。自然に出てきた言葉だからこそ、ちゃんと心の底から思っていたことが言葉に出たと思います」
――溝上選手が都大路のメンバーから外れたことを告げられた瞬間を振り返っていかがでしたか。
溝上「天守閣(禿監督の部屋の呼び名)に練習前に集合するんですよ。それが終わってみんなでアップに行くのですが、自分だけ集合の前に天守閣に呼ばれました。エントリーから外すと告げられた後にみんなが集合してきて、僕だけ泣いているみたいな時なかった?」
田島「あった。間に合わなかったんだなって全員で察しました。これまでの練習を見て、禿監督は分かっていたと思います。本当に掛ける言葉がなかったです」
――高校3年時の都大路で田島選手はトップで襷を受け取り、3区を走りました。
溝上「800メートルだけ(笑)」
田島「1区で鶴川が区間賞を取って、2区が副将の木實優斗(立正大)だったのですが、最初に区間新記録どころじゃないくらいの速いペースで突っ込みました。後半に垂れたのですが、前半の貯めのおかげで(後続から)逃げ切ったんです。でも、後ろが距離を詰めてきている状態が一番嫌じゃないですか。その状態で襷をもらって『今すぐにでも(走ることを)辞めたろうかな』と思いました(笑)。僕も入念にプランニングをしていたので、区間順位1桁とか、日本人トップ5を取れるようなタイムで入ったのですが、留学生が速過ぎました。それが世羅高のコスマス・ムワンギ(中国電力)なのですが、3区は1区と並ぶもう一つのエース区間なのでそれに匹敵する日本人選手も詰め込まれていました。僕が1キロを通過する手前で留学生の足音が聞こえてきて、ぴゅーんって抜かれて、もう参っちゃいました。それでも九州学院高としてのプライドもあるし、溝上への思いもあるし、監督の顔も浮かんだので、まだ行けると思って走りました。でも、今の日本人トップランナーである、洛南高の佐藤圭汰(駒大)が気づいたら僕の後ろにぴったり付いていて、もう楽しくなかったです(笑)。チームは県駅伝でダントツで優勝して勝ち進んで、近年稀に見る最高戦力を有しての都大路でした。まだ達成していない日本一を取るぞという意気込みもありました」
[原田青空]
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対談インタビューの記事は12月19日発行の明大スポーツ第543号にも掲載します。ご購入フォームはこちらから!
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