
(26)ラストインタビュー 村松凜音
卒業式を終え、新たなスタートを切った前4年生選手たち。今回ラストインタビューと題し、戸上隼輔選手(令6政経卒)を除く5選手に取材を行った。第3弾は村松凜音選手(令6営卒)のインタビューをお届けする。
(この取材は3月14日に行われたものです)
――明大での4年間を振り返っていかがですか。
「1、2年目、コロナウイルスがはやっていてなかなか試合が多く開催されてなくて、卓球のモチベーションを維持するのが難しかったんですけど、そこでなんとか踏ん張って自分なりに卓球の競技を続けていく上で頑張ってこれました。それが3、4年生で特別いい結果残ったってわけじゃないんですけど、自分でやり切ったかなって思います」
――踏ん張れた要因を教えてください。
「同期に戸上(隼輔・政経4=野田学園)や宇田(幸矢・商4=大原学園)がいて、そういう選手が海外とかの大会とか Tリーグとかの大会出てたりして活躍してるの見ると、コロナ禍でも頑張ってる選手っていうのが身近にいたので、自分にすごくいい刺激になりましたし、自分も頑張んなきゃなっていうふうに思いました」
――戸上選手が五輪代表に内定しましたがいかがですか。
「オリンピック行きたいっていう強い気持ちが日頃から伝わってきましたし、そこで自分も小さなことですけどなんかサポートできればいいなっていうふうに思ったりもしていました。本人にオリンピック行って頑張ってほしいっていう気持ちも、他の同期もそうですけど、多分思ったんですよね。だからすごく周りから応援される選手なので、そういった選手が近くにいて活躍してるっていうのはすごくうれしいと思いました。もう全部金メダル取ってきてほしいんですけど(笑)。そこはあんまりプレッシャーかけず、本人なりに頑張って、とりあえず帰ってきたらメダルかけに自分のとこに来てほしいですね」
――同期とのエピソードを教えてください。
「基本的にみんな仲良いので一緒にご飯行ったりとか、それこそコロナの自粛期間中とかはもうバカみたいに遊びましたし、もちろん卓球も一緒にふざけながら練習したり、大学生らしいことを一緒に過ごしてきたなっていう感じで。僕だけ就職が地元の長野で他はみんな東京なんですよ。だからちょっと仲間外れかなって思いますけど(笑)。本当に仲良くさせてもらいましたね。4年間楽しかったです」
――同期の皆さんの第一印象を教えてください。
「僕は同期の中で成績が一番下ですし、他のみんなは全国の表彰台立ってる人たちだったんですけど、僕はそういうのに縁がなかったり正直怖いなっていう印象はありました。やっていけるかなって不安があったんですけど、いざ入ってみたら普通の人間だったので、特別強い人ってそういう怖い印象があるんですけど、戸上も宇田ももそうですし、宮川(昌大・情コミ4=野田学園)もそうですし、みんな強い選手なんですけど、卓球を除いた日常生活だったら普通の人間っていうことに気づいて、そこは卓球のオンオフっていうか、すごい最初は怖かったんですけど、今思えば全然普通に仲良くできたじゃんっていう感じですね」
――卒業を控えた今の気持ちを教えてください。
「中学、高校はやっぱ3年間だけなんですけど、大学は4年間あるわけじゃないですか。それでもすごい短く感じましたし、本当にあっという間に過ぎたなっていう印象で。やっぱり1、2年のコロナ禍がなかったらもうちょっと大学生らしいこととか、自分にもっとプラスになることが多くなったかなって思うんですけど、またそれも人生なんで、開き直ってすごい過ごせてきたんですけど、もうちょっと大学生活過ごしたかったですね。あと4年、5年はいたかったですね(笑)」
――大学4年間で成長したことはありますか。
「卓球面だったら高校で苦手だったことが大学で少しは克服できたかなって思ったり、自分の得意なことも伸ばしつつ、周りからの影響でいろいろなアドバイスをもらったりしたので、すごく成長できたかなと思います。人間面では3年の秋から役職がついたりするんですけど、僕はその中で主務を務めさせていただいて。将来仕事に就く上で卓球以外の仕事、大会の申し込みとか会計とかいろんなことあるんですけど。そういったところを監督に教えてもらいながらやりつつ、人間的にも成長できたし、社会人とかになったら、もちろんプロで卓球やるっていう人は別ですけど。もうチキータとかはいらないわけですよ。チキータとかバークとかいらないわけなんで、本当にこれからの社会人としての人生を支えていけるような経験をできたかなって思います」
――苦手だったことは何ですか。
「基本的に僕はフォアハンドですごく動くプレーでバックの技術っていうのがあまりなかったんですよね。そこをカバーできるようなバックのハンドの技術とか、プラス守備、相手の強いボール、打たれたボールに対してのブロックとか。そういう守備の面が高校ですごく苦手だったんですよ。そこが改善できたので、強い選手に焦ったりとか、簡単に負けなくなったっていう感じですね」
――主務になったきっかけを教えてください。
「髙山(幸信監督)さんからまず最初に声を掛けていただいて、主務やってみないかって。なんとなく自分に来るな思ってたんですよ(笑)。最初はちょっと嫌でした。最初は断ろうかなと思ったんですけど今卓球部のコーチに松澤コーチっているんですけど卓球部のOBで、その人も主務やってたんですよ。その人といろいろ話すうちにやった方がいいよとか、別に卓球が弱くなるわけじゃないし、やって得すると思うよとか、いろいろなことを聞いて、じゃあ自分も卓球人生ってそんな長くないなって考えた時に、これから先のこと考えるとやった方がいいのかなって思って、髙山さんにぜひやらせてくださいっていう話をしました」
――プレーヤーと主務業の両立はいかがでしたか。
「オンライン授業なんですけど単位取れてなくてめちゃめちゃ焦ってていました。でも、本当に取れてないわけじゃなかったので、経営学部って卒業単位数が多くて、それがちょっと心配だったって部分はあるんですけど、2年、3年と挽回できて勉強の方は良くなってって、単位がちょっと心配だなっていう時の卓球がちょっとおろそかになってたと思うんですけど、でも今思えばうまく文武両道でやってこれたかなと思いますし楽しい授業もあったので、そこはすごく自分にとってプラスになりました」
――主務としての1年間を振り返っていかがですか。
「最初は本当にもう右も左も分からない状況だったんで。そこで大会の申し込みの仕方とか細かいこと多いんですよ。年度始めが過ぎたら夏の会計とか。そして年末の、いろいろな行事があるんですけど。そういったことをやっていって、なんかもうそれをやってたから今があるっていうような感じにも言えるような、すごい社会人としてのスキルっていうのを身につけさせてもらったので。本当にいい経験させてもらったなって思います」
――4年間で大変だったこと、一番の挫折を教えてください。
「3年目に卓球で成績残したいっていうのが一番強かったので、卓球でいい成績を残して、いろいろな企業からお声を掛けていただこうっていうのを目標にやってたのでそこはもうすごく頑張ってたんです。だけど、やっぱり3年生の段階でいい結果が残らないと就職に向けてちょっと難しいところ。卓球で就職っていうのは難しいところでもあったので。そこはなかなか結果残らなくて、ちょっと悔しい思いはしましたね。ずっとなんか同じような結果だったので、挫折っていうよりはちょっと苦しい状態でした」
――乗り越え方を教えてください。
「これは多分卓球部の学生みんなに言ってると思うんですけど、髙山監督が4年目に一番いい結果を残してほしいとよくミーティングでおっしゃられてていました。僕その言葉すごい記憶に残っててもう今までダメでも4年の最後だけいい結果残せばいいやって開き直ったんですよ。本当に最後なのでじゃあ4年の最後めちゃくちゃ頑張ろうって思ってそこそこ勝てるようになったかな。多分4年が平均的に見ると一番いい成績なんですけど。そこで髙山さんの言った言葉がすごい頭に残ってたので、頑張れたかなって感じです」
――全日本大学総合選手権・個人の部(以下、全日学)でいい結果を残すことができたのはそのお言葉があったからでしょうか。
「全日学が1年目がなくて。2年目が2回戦負けで、3年目が3回戦負け、4年目4回戦負けなんですよ。だから今思えば個人では一番いい成績かなと思って。全日学は自分でも絶対勝ってやろうという気持ちが強かったですね。別の話なんですけど、高3の時もベスト32で、今回もベスト32だったんですけど、やっぱ最後の年やっぱラン決(ランキング決定戦)弱いなっていう感じなんすけど、それプラスダブルスでもベスト16入れたし寺下(拓海・商4=福井商)ともよく頑張ってこれたかなと思います」
――4年間のベストゲームを教えてください。
「2年の関東学生新人(関東学生新人選手権)のダブルスの準決勝ですね。そこで寺下も僕も2位になれば確か全日学の推薦だったんですよ。準決勝で専修大学の相手だったんですけど、推薦って僕ら知らなくて。勝った後に推薦って知ったんですよ。今思えばその時推薦っていうのが頭になくて良かったかなって思うんですけど。相手も格上だったので、まさか僕らが最終結果2位だったんですけど、決勝負けちゃって、今思えばなんかそういう余計な邪念っていうのがなくて、相手も格上で勝てたっていうのは今でもいい思い出ですね」
――その試合の勝因は何だと思いますか。
「多分その時が寺下と初めてダブルス組んだんですけど、それが初めての大学のダブルスの大会で4年の最後まで一緒に組ませていただいたんですけど、その時は台上っていうか、もうすごい台の上の技術とか思いっきりお互いフォアハンド得意なので、フォアハンドをガンガン打っていったっていうのが勝因だと思います」
――やりがいを感じたことはありますか。
「それこそ主務やってからです。やっぱり自分だけじゃなくて他の人のことも考えながら、練習の環境だとか、どうやったらストレスなく学生が卓球できるかとか。そういうのを考えながら動いた時にやっぱり僕だけじゃなくてみんなが勝ってくれるっていうのにすごいやりがい感じましたね。なんか誰かのために動いてるんで、やっぱ誰かが活躍してくれればちょっとは人のためになったなとか。プラス自分のためにもなってるし、他の人が活躍すれば自分のやってきたことは間違いなかったかなって思えるようになりましたね」
――3年次はグランドスラムを達成しましたが、4年次は無冠に終わりました。振り返っていかがですか。
「本当にシルバーコレクターでしたね。春リーグ(関東学生春季リーグ戦)は3位だったと思うんですけど、他2位とかで。昌大も全日学シングルスで2位だし、明治大学が本当にシルバーコレクターだなって思って。今思えばしょうがないなみたいな感じになったんですけどその当時はすごい悔しかったですね。インカレ(全日本大学総合選手権・団体の部)負けた時もみんなもう何も喋れない状態だったしやっぱりリーグ戦も勝てなくて、1個もタイトル取れなかったっていうのは僕だけじゃなくて、もうみんなが苦しいことだったし、 なおさら去年達成してるから今年もまたチャンスあるだろうってみんな思ってたんで悔しかったですね。今思ってもあの悔しさは忘れられないですね」
――栄光と挫折を味わった4年間だったと思いますがいかがですか。
「自分らしいなって思ったし、そこは一つの結果として明治大学の伝統になると思うので僕らがダメだったら次は後輩たちが頑張るしかないので応援していきたいですね。もう後輩たちに全部任せます」
――同期、後輩に伝えたいことはありますか。
「同期に関しては4年間仲良くやらせてもらってなんかもう本当にキリがないんですけど、やっぱ一緒に卓球やったりとか同じ大学で4年間過ごしたので、僕の中ではこれから一生続いていく関係だなと思ってるので、仲良くしていただけたらなと。たまに僕も東京行くので、そこで仲良くさせていただけたらいいなって思います。あと後輩たちはすごい卓球練習する子多くて、本当にポテンシャルの高い選手ばっかりで、僕も本当に憧れる存在でした。これから僕らよりもっと苦しい経験すると思うんですけど、後輩たちならやってくれるだろうって思いますし。大学生活も卓球だけじゃないので、いっぱい楽しんでほしいです」
――村松選手にとって卓球とはどのような存在ですか。
「人生って言ったらちょっとくさいんで(笑)。なんかないかな。卓球といえば体の一部ですね。もうずっとあるのでもう体の一部にします(笑)」
――卓球の魅力を教えてください。
「卓球の魅力は他のスポーツは多分年齢が関係あるんですよね。でも卓球は老若男女全部問わずできるっていうのが素晴らしいと思いますし、プラス温泉とか行ったら多分卓球台とかあるので。いろんな人ができるスポーツで、たまたまそこでハマったのが僕ら。僕たちがハマってるだけなんですけど、いろんな人ができるのですごくそこに魅力を感じますね。僕も多分年取ったらずっとやってるんですけど、そこに関しては卓球の素晴らしいところだと思いますね」
――卓球を始めたきっかけを教えてください。
「きっかけは、すぐそこにめっちゃボロい小屋があったんですよね、そこになんか手作りみたいな、本当にぼろい卓球台がポツンって一台置いてあったんですよ。そこで小学校の時にやってるのを見て、そこでなんか友達と混ざったりしたっていうのがきっかけですね。そこからから多分ハマっちゃったと思います。その時小さい小屋の卓球場の隣にたまたま卓球やってる人がいてその人が見てくれたんですよ。それでその人からやった方がいいよみたいなことを親に言ったらしくて。その隣のコーチと一緒に卓球クラブに行って今に至るって感じです」
――明大卓球部に入って良かったと思いますか。
「めちゃめちゃ思いますね。もう昔からの憧れだったので。中学校2年生ぐらいに初めて明治の練習行ったのかな。その時から紫紺のユニホームがすごくかっこいいなって、将来この大学でやりたいなって思ってたので、そこに入れたことが本当にうれしいことですし、そこでプラス卓球続けられて自分の中では人生の宝物ですね」
――卒業後の進路を教えてください。
「長野県の岡谷市役所。公務員になるんですけど。そこは明治大学卓球部の先輩方が多くいて、そこで4年後に長野国体あるんですよ。それに向けて頑張るって感じですね」
――今後の目標は何ですか。
「まだ全然結果にこだわるのが大事だと思ってるので、大学で完全燃焼したわけじゃないので、こっからまだまだ卓球やっていく上では強くなりたいですし、もっと結果にこだわっていきたいなって思いますし、プラス社会人として公務員になるのでそこは岡谷市ためにいろいろな仕事としっかり向き合って、人としてもこれからも成長でできるようにしていきたいなって思います。近々長野国体があるので、僕が27歳とかなんですけど、国体代表に選ばれていい結果残したいなって思います」
――ありがとうございました。
[七海千紗]
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