(162)【特別企画】齋藤司主務インタビュー

2023.12.17

 齋藤司主務(商4=城南静岡)は1年次からマネジャーとして長距離ブロックを支えてきた。選手と苦楽を共にしてきた彼にとっても、今回の箱根駅伝(以下、箱根)は競走部生活の集大成となる。表舞台だけでなく、日の当たらない場所でも常にチームに貢献してきた4年間。知られざる齋藤主務の姿に迫る。(この取材は12月7日に電話で行われたものです)

 

――マネジャーを始めたきっかけはありますか。

 「僕も中学、高校で長距離に取り組んでいました。選手として結果は残せなかったのですが、陸上競技に関わりたいという気持ちを持っていました。その時に大学スポーツを取り上げた媒体で、М高史さんという駒澤大学で主務をされていた方の記事を読んだんです。それまではマネジャーに対して雑用とか地味な仕事のイメージを持っていたのですが、記事を読んだことで取材の対応はもちろん、選手と監督の橋渡しになるなどチームにとって重要な役割を担うことを知りました。選手として箱根に関われなくてもマネジャーとして関わることができたら立派なことだなと感じ、大学からマネジャーをやりたいと考えるようになりました」

 

――大学で競技を継続することは考えましたか。

 「僕は県大会に出場するような選手ではなかったんです。駅伝も人数が足りなかったので、5月くらいには引退してしまいました。それでも、無謀だとは思いつつも大学で競技を続けたいと考えて夏休み頃までは自主練習を続けていました。競技の継続は厳しいだろうなと感じ始めたタイミングで、М高史さんの記事を見たことで気持ちがマネジャーに傾きました」

 

――高校時代に取り組んだ種目を教えてください。

 「5000メートルなどの長距離種目がメインでしたが、顧問の先生の専門が投てき種目だったので補強運動に力を入れていました。一番タイムが良かったのはメインではない800メートルだったと思います」

 

――明大に進学した理由はありますか。

 「自分の通っていた高校の中では明治大学は上のレベルに位置する存在だったので、そこを目指したい気持ちがありました。部活に関していえば明治は歴史と伝統がある大学なので、そこで主務として箱根に携われたらすごく光栄なことだなと思い明治を選びました」

 

――実際にマネジャーを始めて感じたことはありますか。

 「自分も高校までは選手をやっていたからこそ分かりますが、長距離の練習ってやっぱりきついじゃないですか。なので、マネジャーはやることが多いとはいえインターバル走とかペース走みたいなつらさはないだろうと思っていました。でも、入ってみると本当にいろいろなことに気を回さなければならず、気が休まらない印象でした。最初は本当に予想よりもめちゃくちゃきつかったので、今思えば正直舐めていたなと思いますね」

 

――選手からマネジャーになる上でギャップはありましたか。

 「選手の時には自分のことだけに集中すればいいというか、オンとオフをはっきりさせやすかったんです。でも、マネジャーになってからは普段の練習の給水準備はもちろん、練習後に取材のメールを返したり、エントリーのための書類をまとめたり、他のマネジャーに指示を出したりとやるべきことがたくさんあります。なので、選手時代と比べてオンとオフの区別をつけづらいことが大きな違いだったと思います」

 

――4年間活動する上で意識していたことはありますか。

 「最初の2年間くらいの経験を踏まえた上で意識するようになったことがあります。それは完璧を求めすぎないということです。選手は走ればタイムという明確な結果が出るじゃないですか。だけど、マネジャーは仕事の結果が数字に表れないので、自分がやった仕事の成果が分かりにくいんです。下級生の時に、求められたことに対して完璧に応えようと考えていたら疲れてしまった経験もあります。なので、学年を重ねるにつれて完璧を求めすぎないというか、ゆったりと構えていた方が継続的に頑張れるなと感じましたね」

 

――競走部以外の人への対応は苦労することも多いですか。

 「外部の対応は下級生のマネジャーが多いこともあり、他の人に仕事を振れるので今はそんなに大変だと感じていないです。3年次に1年間主務を経験したことも取材などで外部の人に対応する上で大きかったと感じています」

 

――4年間を通して成長したことはありますか。

 「僕は不器用で何事も何回もチャレンジしてやっとモノにできるような感じなんです。なので、すごくチームにも迷惑を掛けたと思う部分はありますね。でも、4年生になってからは合宿先の自治体の方など、いろいろな方と話をする中でやり方を学びました。あとは価値観ですね。部員にもいろいろな子がいるので、自分の視野が広がったなと思います」

 

――選手と接する中で気が付いたことはありますか。

 「競走部の選手はみんな高校時代にインターハイに出たり、都大路(全国高校駅伝)に出ているので修行僧みたいな人間の集まりかなと思っていたんです。でも、いざ入ってみると全然人によって性格が違って。具体的に挙げるなら児玉(真輝・文4=鎌倉学園)のようにストイックに1人で黙々と取り組むタイプで、周りと対立してでも自分の軸を通すような人もいます。それに対して斎藤拓海(政経4=市立船橋)や橋本(基紀・商4=専大松戸)のように競技は真面目にやりつつも自分を追い込み過ぎないというか、ある程度ゆったりと構えるような選手もいます。目標が同じだとしてもそこに向かうスタンスは全然違うんだなと思いました。みんなすごくストイックな感じだと思っていたけれど、そうではなかったというのは入部当初はすごく驚きでしたね」

 

――マネジャーを続ける上で苦しかった時期はありましたか。

 「一番辞めたいと思った時は1年生の冬ですね。僕が1年生の時に主務だった飯田(晃大・令3営卒)さん、2年生の時に主務だった植田(雅弘・令4理工卒)さんはプレイングマネジャーだったので選手の気持ちを理解して接していました。ただ、僕の場合は高校時代の実績がない状態で入ってきたので陸上をやってきたとはいえども選手との距離感が分かりづらかったです。それに加えて僕は人と話すのが苦手だったので選手ともコミュニケーションがうまく取れなくて。それが原因でみんなの輪から浮いているような状況でした。周りへの頼り方も分からずに気を病んでいたなと思います」

 

――その時期はどのように乗り越えたのですか。

 「やっぱり箱根に対する憧れだったと思います。高校の時から抱いていた箱根に対する憧れがきっかけで明治に入ったので。あとは両親が苦労して大学に行かせてくれたのはもちろん、僕自身も競走部に入るまでにいろいろな苦労をしてきました。大学1年生の冬で辞めたらそれまで頑張ってきたことも水の泡になってしまいますし、学費を負担してくれた親に対しても顔向けができないと感じていました。そのような思いで何とか踏ん張れたかなと思います」

 

――4年間続けてきた中で印象に残っていることはありますか。

 「3年生で主務になれたことです。2年次の箱根が終わった後に主務に任命されたのですが、僕の中では主務として箱根で運営管理車に乗ることが4年間における大きな目標でした。4年生で主務になれたらと考えていたのが、1年間前倒しで就くことができたので印象に残っています。3年次の箱根で運営管理車に乗れた時は『やっとここまで来れたな』という感覚だったので、それが一番印象に残っています」

 

――運営管理車に乗ってみていかがでしたか。

 「沿道で観戦しても選手はあっという間に通り過ぎてしまいます。なので、ずっと明治が走っている姿を見ることはできないと思いますが、運営管理車に乗っていると全ての姿を見ることができます。そういう意味ですごくぜいたくなポジションだと感じました」

 

――今回の箱根に向けた意気込みをお願いします。

 「箱根では総合8位を目標にしています。ここ数年は予選会で結果を残しても、駅伝で結果を残せずに〝でこぼこ駅伝〟と言われてしまっているので、選手が練習通りの力を出せるようにコンディショニングや体調管理の部分を徹底して頑張っていきたいです」

 

――ありがとうございました。

 

[菊地隼人]

 

第100回箱根駅伝まであと12日。

 

齋藤主務の記事は12月21日発行の明大スポーツ第534号(箱根駅伝特集号)にも掲載します。ご購入フォームはこちらから!