
(38)シーズン後インタビュー 松原星
掲げた目標の達成を目指して、今シーズンをひたむきに戦い抜いた。今年度の日本学生氷上競技選手権では20年ぶりにアベック優勝を果たし、チームとしても目覚ましい結果を残した。その中でも、近い将来を見据えながら歩み続ける選手もいれば、今シーズンでスケート競技から引退した選手もいる。それぞれが感じる思いを、選手の言葉を通じてお届けする。
(この取材は2月27日に行われたものです)
第8回は松原星(商4=武蔵野学院)のインタビューです。
――明治法政on ICE 2023(以下、明法オンアイス)がありましたが、本番を終えてみていかがですか。
「長い間、東伏見のリンクで練習していたので、最後の演技をあのリンクでできたのが一番うれしかったことかなと思います」
――演技が終わった後、たくさんのお客さんを見て何か感じたことはありましたか。
「あのリンクでお客さんがたくさん入っているのは久しぶりのことだと思うので、すごく人がいっぱいいるなと感じました。大人数いるのはブロック(東京選手権)や東日本選手権(以下、東日本)などなので、コロナ前の感じに戻った気がしてうれしかったですね(バナーもありましたね)やはりうれしいですね。全日本選手権(以下、全日本)とかだと少し遠くて、視力が悪いのもあって『あそこにあるかな?』みたいな感じになってしまうのですが、東伏見だと近いのですぐ見つけられて、うれしかったです」
――ご家族は明法オンアイスを見に来ていましたか。
「母が見に来ていました。(お母さまから何か言葉を掛けてもらいましたか)『意外ときれいだったよ』みたいなことを言っていましたね。あまり褒めない人なのですが、きれいだったらしいです(笑)。19年なんとか終えたね、終わってしまったのだねという感じでした」
――全ての競技会や本番を終えてゆっくりと時間を過ごすこともできたと思いますが、どんな感じがするのですか。
「これまでケガをして休むこともあって、数カ月休んだこともあったので、スケートがない生活が変というわけでもなくて。ケガをしていた場合はリハビリに行ったり、絶対遊ぶことはなかったですね。逆に1日中スケートのことを考えていて、普段より考えている期間なのかな。でも、今の何も考えない日々、物足りなくないですね(笑)」
――国体が最後の競技会でしたが、振り返っていかがですか。
「国体のSP(ショートプログラム)がルッツではなくてループでしたが、足をケガする前から、ジュニア時代にループが課題だった時から決められていなくて、転んだりパンクしたりが続いていました。ジンクスみたいなのがあってしっかりと降りたことがなかったので、国体でノーミスできたことがかなりうれしくて。あのサルコウ+トーも全盛期のサルコウ+トーに戻った感じがしていて。練習で超完璧なサルコウ+トーを跳んでいても、緊張して本番ではトーループが小さくなっていたりしたので、本当に練習通りのサルコウ+トーがあの時出せたのかなと思います。FS(フリースケーティング)は、ループ+トーを跳んだり、なかなかやらないことをやったりリカバリーしたりと部分的には良かったですが、やはりサルコウ+トーを跳べなかったのがとても悔しかったです。国体のSPが自分の中で感動したかな。『わあ、できた』と久しぶりにうれしかったなという感じです」
――国体のFSでのループ+トーループのリカバリーはとっさの判断で行ったのですか。
「とっさの判断だと思います。どこにでもトーループを付けることができるのが特技なので、と言ってもループ+トーを練習したことはほとんどなかったです。ジュニアの頃、先生に『全部のジャンプにトリプルトーループを付ける練習をしてみたら』と言われて、体力の面もあるしリカバリーの意味でもその練習をよくしてきていて、そういうのも生かされたかなと思いますね。ループ+トーは、全てのジャンプに付ける練習のときと『たまにはやっておいたら』というので跳んでいたくらいなので、本当にとっさの判断力で跳んだのだと思います」
――今シーズンの全日本を振り返っていかがですか。
「全日本、ショート落ちしたと思っていました。ノーミスしないと通過できないと思っていて、レベルを下げているのもあって失敗した時点でアウトだなと思っていましたが、通ることができました。FSはループを久しぶりに降りてうれしかったし、まあまあまとめられてうれしかったですね。ジャンプで難易度の高いものはやってないので、いい演技がすぐ塗り替えられるといいますか、全日本でどうだったかより国体、直近の記憶の方が鮮明な気がします。国体のSPが良かったから自分の中で印象が強いのかもしれないです」
――高校3年次に初めて出場した全日本を振り返ってみていかがですか。
「楽しかったです。SP落ちしたくない緊張感はあったし、体が浮いて、歓声がすごくてこれまでに経験したことがなかったです。歓声がすご過ぎて、緊張状態というかふわふわして足が浮き上がりました。本番も正直少し浮いていたと思います。後半グループで、緊張しているけれど6分間練習より演技の時の方が落ち着いていました。フラワーガールで滑っていた場所に自分一人で出ているんだという実感があって、緊張よりかは楽しかった記憶の方が大きかったと思います」
――その時は東日本1位で初の全日本を決めましたが、その時点でうれしかったですか。
「念願の全日本だったので、ジュニア時代も全日本に行きたいと言って全日本ジュニア6位以内に入るのを目指していましたが、ことごとく逃していました。とにかく今年こそシニア1年目で全日本いくぞと思ってやっていたので、とてもうれしかったです。常に一歩足りない選手だったので、ようやく出られたと感じました」
――これまでのプログラムで一番印象に残っているのはどのプログラムですか。
「『ファインディング・ネバーランド』になるのかな。ネバーランドの曲が大好きで。今はスケートを辞めてしまっているのですが、松野真矢子ちゃんがネバーランドをやっていて『いつか絶対に使いたい』と思ったんですよ。トリプルサルコウやトリプルトーループを跳ぶ子で、私の中では超お姉さんで、その子がネバーランドをやっていて、曲も振り付けも好きで完コピしてたんですよ。それで絶対いつかやりたいと思っていました。曲へのこだわりがあまりないのですがネバーランドはすごく使いたかったです。(2016シーズンにその曲を使っていたと思いますがその時期に使用した理由はありますか)そろそろいいかなと思ったのかな。あの当時はちんちくりんな動きしかできず、真矢子ちゃんは大人っぽくて。まだ早いと思っていて、でももう勝負のシーズンだったので。そのシーズンはすごく練習していたし、FSは曲が好きだからすごくかけていたし、いつまでたっても何度かけても飽きない、振り付けも好きだったし、とにかく好きでずっとそれはかけていました。練習でノーミスも結構していましたし、思い入れがあるかなと思います」
――ご自身の中で、高校時代が勝負のシーズンでしたか。
「一番の勝負は高1から高2だと思います。ジュニアグランプリに出たいし、出たいからすごく練習していたし、それに出ないとトップに入れないという思いがあったので。それに出るためにがむしゃらにやっていました。どんなに頑張ってもあと一歩届かないし、ジュニアグランプリには出られたのに思い返せばすごく悔いの残る試合だったし、出られたのに自分の先を開けなかった、結局そこ止まりにしたのも自分だったし、悔しかったです。選考会に呼ばれて、そこから何人か選ばれてジュニアグランプリでいい成績を残して、それがつながっていくわけなので。つながるための大事な選考会で、選ばれなかったら何もならないので毎年それに懸けていました。毎年、一番緊張しました。最近はそういう選考会はなくてあっても微妙な立ち位置だったので、最近だと東日本が一番緊張していました。東日本と全日本のSPが緊張して。いつもSPが鬼門で、特にジュニアの時はSPで出遅れたら基本的に上がれなかったので、それで緊張していました」
――高校2年次に補欠から繰り上げで出場したジュニアグランプリシリーズ・ポーランド大会の総合順位は6位でしたが、その結果はどう受け止めていましたか。
「ジュニアグランプリがトップ集団に入れるラストチャンスだったと思うのですが、そんなことも分からず出られることがうれしくて『ようやく出られるよ』と思っていたので、その時はスピンやステップのレベルを詰めていくとかそういうのも全然していなくて、とにかくジャンプをやるみたいな感じでした。本番はまずSPが駄目で。フリップでステップアウトしたのでコンビが抜けて、ルッツで転んだのでほとんど何も跳んでいないですね。そこで優勝してどうなるのかという話にはなるのですが、それでももう1戦出て、そうやって少しずつ積み重ねてトップ選手は上にいっているので、そういった土台の部分に少し足を踏み入れたのにモノにできなかったし、まさにチャンスを逃した、チャンスをモノにできなかった一番の試合だと思います。補欠でもせっかくジュニアグランプリに出られたのに、そこで何もできなかったです」
――大学1年次は、ご自身で「忘れられない1年」と過去に話していました。
「捻挫をしてしまって。サマートロフィーの出発前日だったと思います。それまで少し足首が痛くて、トーループの付き方がずっと変で足首が痛かったんですよ。それで転んでしまって、人生初の捻挫だったので何が何だか分からず、まずトイレに逃げ込みました。『えっ、ぜんぜん歩けない』となって、次の日が出発で、サマートロフィーは棄権しました。その後も捻挫していてそれが大1の東インカレの後で東日本の少し前くらいの時です。東インカレ前はようやく左足がよくなってきて、練習しだして良かったんです。東インカレが終わって東日本が割とすぐに迫っていたのですが、そこからは全然思ったように戻らなくて。多分、変な転び方をして次は右足をやってしまいました。そこで捻挫して『あ、終わった』と思って、その事実は、心臓が10年くらい縮むくらいのことでした」
――ブロック以降の大会を棄権する選択はしなかったのですか。
「やれば一応跳べたので。(痛みはありますよね)痛いし怖いしまたルッツでひねっちゃうかもしれなくて、ずっと怖かったです。やれば跳べるのに練習をうまくできない、けどでもやっぱり跳べるから試合で跳びたくて。それで練習しようとしてまたひねって、1週間休みみたいな状態を繰り返していました。あとは、大会でひねってしまったら動けなくなるという恐怖もありました。それでも、意外と大学1年のシーズンは良かったんですよ。インカレ、国体までしっかり出て。インカレが終わって国体に向かうときに『国体が終わればもう休める』と暗示をかけてやっていたのですが、どの大会の前も1回はひねっていたので、やってはひねってを繰り返していたら『もう治らないね』みたいなことを言われてしまって。休んだら治ると思っていたので大ショックでした。『えっ、この恐怖引退まで続けるの?』みたいに思いました。結果的には治ったと思いますが、右足はずっと緩くなっていたのかなと思います」
――今までの戦績を見て、SPで後れをとったときにはFSでしっかりと巻き返すといった印象を受けました。
「それは懐かしい話ですよね。FSは絶対ノーミスが当たり前みたいな時期がありました。ジュニアグランプリの前の年くらいですかね。自分は追い込まないとできないし、練習で完璧でないと本番で出せないのが当たり前だと思っていて。練習でノーミスをたくさんしていたので本番で巻き返せるのは当たり前みたいな状態だったと思います。SPはずっと苦手でした。3本しかジャンプがないので緊張するし、跳べてもSPは自信がなかったです。でもFSで跳んで巻き返せていました。いつからそれができなくなったのでしょうか。ノーミスが貴重過ぎて。でも自分の中で、結構崩れないほうだとは思っています。『だってそれだけ練習してるもん』と思います。それなので崩れた場合はすごくショックで。『こんなに練習していて今回ぐちゃぐちゃになってしまって、なんで跳べなかったんだろう』と思います。実際に1回そうなったことがあって、ボロボロですごくショックで『あんなに練習したのになんで』みたいになって。それからFSの本番の自信がなくなったのですが、その後に割とすぐにFSノーミスができたので一瞬でスランプから抜けました」
――『あんなに練習したのに』というのは、可能な時間は全て練習に費やしていたといった感じですか。
「曲かけをよくしていて、跳べるまで曲かけしていました。だから本番で跳べるという理論はおかしいですけどね。メンタルトレーニングもしてそれが効いたのもあると思います。本番で力を出せない子だったので、どうやったら本番で跳べるかみたいなその研究をずっとしていましたね。緊張で跳べないってどういう意味か。緊張に対してはよく研究していました。ジャンプも研究していて、中学高校の時は学校に行っても基本的にジャンプのことを考えていて、寝る直前まで『あのジャンプは……』みたいに考えていました」
――頭で考えることも、実践することも何度もしていたのですね。
「そうですね。先生には『もういいよ、跳べてるから』と止められていました。いやでも違うんですよねと思って。10回やって1回失敗したらもう1回、10回連続で跳べないといやだみたいな。そうしないと本番に向かいたくなかったです。それくらいやらないと、自信がつかなかったかなと思います。練習で跳べないと本番で跳べない、でも練習量が本番につながるのかと考えてみてそれは違うかもしれないと思ったのはやっぱりケガがきっかけだったと思います。練習量はあまり変えなかったですが、本番で跳べるための練習、本番と同じ状況をつくった練習を大学生になってからよくするようになっていました」」
――飽きるということはなかったのですか。
「ないんですよ。きれいにはまるまで永遠に続けるんですよ。1回跳べても『いやこれたまたまだな』と思っていて。逆に言えば、1発で決めるというのがなかったんですよね。10回連続で跳べたら本物と思っていました」
――松原選手は3回転サルコウ―3回転トーループを強みにしていましたが、いつ頃から武器になりましたか。
「高校3年の頃だと思いますね。その時からSPをサルコウ+トーにしていて、それを一つ自分の強みにする決意はあったと思います。以前は、リカバリーでサルコウ+トーをやっているような状態で、フリップ+トーが跳べなかったら最後にサルコウ+トーを付けるみたいな。最初にサルコウ+トーをやったきっかけは1年生の全国中学校スケート競技会(以下、全中)の時かな。初めての全中でとある選手がやっているのを見て、あの時代はトーループ・トーループが主流だったんですよ。自分もトー・トーをやっていました。でもサルコウ+トーという初めてのものを見てかっこいいと思って、サルコウ+トーを練習し始めました」
――サルコウ+トーは『かっこいい』と思ったところから始まったのですね。
「そうなんですよ。縦に跳んできて、自分が見ている方向に跳んできたんですよ。上から見ていて『なんだこれは』と思って。真っすぐ来たらトー+トーだと思うので『えっ、サルコウ+トーやった?』と思いましたね。そこから始めました」
――大学2年次と大学3年次の全日本での目標は『SP、FSそろえてノーミス』でしたが、大学4年次になってノーミスという目標を掲げてはいませんでした。それには何か理由がありますか。
「ノーミスをそれほどできなくなったからだと思いますよ。大2の頃は練習で跳べなくなっていたので目標の意味を込めて常に言っていました。大3はなんとなく自分の中で跳べるようになってきて形になって、昔ほどではないけどノーミスもできるようになってきていたのでそれが一番の目標でした。昔からSPは駄目だけどFSはそれなりまとめるという状態で、両方そろえるのが常にできていなかったのでそれが一番の目標になっていました。大4になって、全日本前はケガをしている状態で、ノーミスと言ってもルッツとフリップを入れていない状態なので、ノーミスと言ったところでなんとなく不完全で。以前入っていたものが入っていなくて、ノーミスしても『やった!』などとはならないから言わなかったのだと思います。最後ですし、全日本という舞台も最後なので目標も変わっていったのだと思います」
――スケート人生の中でつらかったこともあったかと思いますが、涙を流すことはありましたか。
「ケガでしょっちゅう泣いていました。からっとし過ぎて、普段泣くイメージはないと思いますが(笑)。最近だと、ブロックの後に捻挫して『東日本で終わっちゃうんだ私のスケート人生。人生終わった』と思いました。『19年続けて最後はこれか』と、1週間くらい泣き続けて、引退後くらいまでの涙は使い切った気がします(笑)。小さい頃は負けたから泣くとかあったかな……。母に怒られて泣くのはありましたよ(笑)」
――ラストシーズンになって感謝の気持ちを伝えられるようにとよく話していましたが、それは達成できましたか。
「自分のできること、今の自分ができる最大限のことをするというのが母の教えで、ケガしたら仕方ないですしどうしようもないので、そこで自分がどうあがいて必死になって自分のできることをやって自分の目標にたどり着くかみたいなのが昔からあって、それを存分に発揮したシーズンでしたね。国体のループ+トーは母もしびれたと言っていた気がするのですが『どうせ練習してないのにああやって付けられたんだろうけど。あかりらしいよね』と言っていて。『最後までやることやって、そういうところも含めて星らしいシーズンだったんじゃない』という風には言ってくれましたね」
「自分がけっこう冷めている性格なので誰かの演技に感動することはなかなかないことだし、感動することがあまりない人生で。性格は内側のものなのでなかなか直らないものじゃないですか。自分のスケートを通して心を動かせることはすごくいいことだと、ラストシーズンで一番思いましたね。国体の演技を見て『泣いちゃったよ』と言ってくれて、でも自分は全然分からないといいますか、誰かを見て初めて泣いたのは永井優香ちゃんが引退した日で。急に涙が出てきて一番びっくりしていたのは優香ちゃんで(笑)。『あのあかりんが』という感じで、それくらいなかなか感情が出ない人なのですが。『泣いちゃったよ』と言ってもらえて初めてうれしいなと思いました。でも言ってくれるからこそ『自分、そんな演技ができてたのかな』と振り返ってしまうというか『ほんとに? あれでよかったのかな』と思ってしまいますね。(感じ方は見る人次第というところもあると思います)ずるいですよ(笑)。私はすぐ『あのジャンプは……』という方に走るので(笑)。完璧主義だけど基本完璧にできなくて、完璧にやろうとする主義でした。それができたらトップ選手になれたのかもしれないですね」
――ラストシーズンはどんなシーズンになりましたか。
「一言で『ありがとう』ですね。関わったすべての人に感謝ということで。一番は両親、たくさんの先生たち、友達、仲間、応援してくださった皆さんにありがとうと伝えたいということでありがとうにしました」
――お世話になった方々へメッセージをお願いします。
「19年間一番近くで支えてくれた両親もそうなのですが、本当にたくさんの先生方、仲間、応援してくださる皆さん、常にいてくれたからこの19年間最後まで諦めずに続けてこられたかなと思うので、本当に感謝の気持ちを伝えたいです。その思いでいっぱいです。本当にありがとうございました」
――ありがとうございました。
[守屋沙弥香]
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