〝飲み〟という言葉の罪

 「飲みに行こう!」。酒類の提供が緩和されて早1カ月。この言葉をよく耳にするようになった。そう、私には言えない幻に近いセリフ。一度は口にしてみたい。

 「昔よりもだいぶ良くなったよ」。歳を重ねた人は口々に言う。しかしそれは表面上の話。飲めない人の苦悩は見えないところにある。しらふの私がいて場がしらけないだろうか。飲んでいる人にちゃんとテンションを合わせられているかな。本当は来てほしくないと思われているのかも。お会計はどれくらいだろう。もう周りを気にすることで頭がいっぱいだ。飲める人にとってはたかが飲み会。飲めない人にはされど飲み会。気を遣いすぎてしまう自分に辟易(へきえき)する。〝飲み〟という言葉のハードルはとてつもなく高い。

 だったら〝ご飯〟は、というとこれもまた難しい。特に先輩・後輩、男女の関係において。「ご飯に行きましょう」。その言葉の裏にどことなく漂う真剣な雰囲気。言葉の節々にちらりと見え隠れするほのかな恋心。まるでハイヒールを履いて背筋が伸びる思いだ。対する「飲みに行きましょう」。私にとってはとても気軽な誘いに聞こえる。飲めない人には分かりえない〝ただ飲みたいだけ〟という心理 。まるでサンダルをつっかけるかのような軽さ。どうして大人になると〝ご飯〟の意味合いがこれほどまで変わってしまうのだろう。

 近づいてくるクリスマスや忘年会シーズン。できることなら私も皆と杯を交わし、本音で語り合う楽しさを体感したい。そうできない人を「かわいそう」と思う人がいるかもしれない。でもそれも一つの個性。今年は飲めない人も楽しめる集まりが多かったら。そう思い、先に言ってみる。「ご飯に行こう!」。

 

[伊東彩乃](執筆日:11月16日)