熱血明治一筋 多賀恒雄レスリング部総監督

2012.07.04

 レスリング部の多賀恒雄総監督(昭53商卒=写真)は幻の五輪選手だ。1980年のモスクワ五輪。東西冷戦の緊張を背景に、日本を含め西側諸国は集団ボイコットした。多賀総監督は選手時代、79年のW杯で2位に輝くなど五輪でもメダル候補だったが、出場はならなかった。現在は明大農学部の教授を務めながら、後輩の育成に当たる。


 確かに目の前にあった五輪のメダル。当時をこう振り返る。「今考えるとやっぱり悔しいよね。出ることができていたなら、メダルを取る自信はあった」。日本の五輪不参加に関しては「うすうす感じてはいた」という。だが「どうしようもなかった」。次の五輪に向けても活躍が期待されたが、もう気持ちが続かなかった。「そこでもう減量しなくていいのかとホッとしてしまったね。そういう気持ちになってしまって、現役はもう無理かなと思った」
 引退後は、指導者への道を歩み、16年ほど前に農学部教授に。総監督になったのは約10年前だ。就任当時は練習が甘く、部の低迷期。新入部員は毎年少なく、かろうじて1部リーグではあったものの、2部転落の瀬戸際で戦っていた。その状況からインカレ優勝者も育て上げた。「まず生活をしっかりするように」と日頃の行いから意識改革。練習でも手を抜いたプレーが見られるとすぐに怒声が響く。ある選手は「入学前に想像していたより全然厳しい、きつい」。練習だけでなく、試合でも激しいげきが飛ぶ。
 それでも「やっぱり選手が勝った時はうれしい。いつかは明治から五輪選手を出したいね」と笑顔で語り「卒業した部員には社会で貢献できる人間になってほしい。幸せになってほしい」と真剣に語る。「性格上こういう指導しかできないんだよね」。厳しい裏には父親のような優しさが隠れている。