
【硬式野球部】挑・超・頂
猪軍団が〝挑・超・頂〟のスローガンを胸に歩み出す。昨年度は春秋連覇、明治神宮大会優勝の3冠を達成。今年度のチームには優勝の喜びを肌で感じた選手が多く残り、リーグ戦3連覇に期待がかかる。そして主将には大学日本代表経験もあり明大打線の柱である上田希由翔(国際4=愛産大三河)が就任。5大学が〝打倒明治〟で迎え撃つ中、明大はどのような戦いを見せてくれるのか。本企画では、神宮へと挑む選手たちの1年間を追っていく。
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(117)大学野球引退インタビュー 上田希由翔主将
硬式野球 2023.11.16上田希由翔主将(国際4=愛産大三河)――4年間を振り返っていかがですか。 「5位も経験して、優勝も経験できて、いろんなことをリーグ戦では経験できたのが良かったかなと思うし、野球の技術だけじゃなくて、いろんなところで成長できたと思うんで、この4年間大切な時間だったなと思っています」 ――この4年間で自分の中で一番成長した点を挙げるならどこですか。 「1人の人間として成長できたと思いますし、今まで自分のことばかり気にしてたのが、誰かのためっていう気持ちに変わったり、やっぱり結果残さなきゃいけないっていうところから、粘り強くというか辛抱強く、一つ一つの練習に取り組んでいけたかなっていう感じはしてます」 ――一番影響を受けた人、一番支えられた人はいらっしゃいますか。 「同期だったら堀内(祐我内野手・文4=愛工大名電)にはもう練習相手になってもらったり野球のバッティングのことをいろいろ聞いたりしてたので、支えられたと思いますし、先輩だったら村松さん(開人選手・令5情コミ卒・現中日ドラゴンズ)長南さん(佳洋選手・令5文卒・現日本製鉄東海REX)にはお世話してもらったり、後輩だったら宗山(塁内野手・商3=広陵)とかにバッティング聞いたりとかしてたので、1人に絞るのはなかなか難しいですけど、そういういろんな人に支えてもらってましたね」 ――一番嬉しかったこと、一番苦しかったことを教えてください。 「2年のときになかなか結果が出なかったのが苦しかった1年でしたし、やっぱり(3年次に)日本一取れたのが一番大きかったかなとは思っています。(4年間でターニングポイントとして挙げるなら)でも今年の新チーム始まった時に、やっぱり3年までとこの4年の1年間で全然取り組み方が変わったと思うんで、そこが一番大きかったかなとは思います。12月ぐらい」 ――この1年間はどんな1年間でしたか。 「今この早慶戦見てる時でもプレッシャーがないというか、何もない状態で見ててもやっぱり面白くないし、何かを懸けてというか、何かプレッシャーをかけられてやっている方がわくわくするし、やってやろうっていう気持ちにはなるので、1年間そういう目で見られてたっていうのはある意味良かったのかなっていう感じはします」 ――最終戦はどんな気持ちで臨みましたか。 「後輩にいい形でつなげるっていうことと、最後4年生の集大成を見せるっていう意味で、その試合をもう勝つためにやってました。(その試合で決勝打)打ち損じというか、アウトの打球だったんですけど、最後まで運持ってたなという感じでした」 ――ドラフト前日、当日は何をされていましたか。 「前日は本当になんかもう1日が長く感じて、早く始まってくれないかなっていう気持ちがあったんですけど、かといって練習ができたかといわれれば全然できなかったので、もう本当に待つだけって感じでした。当日も髪切りに行って、神宮参拝行って、本当にもうずっと待ってたっていう、基本的に何もしてないですね。早く時間経ってくれないかなっていう感じで待ってました。宗山とゲームしてたり、それで紛らわすしかなかったので。(神宮に行くのは部で決まっているんですか)いや、全然決まってないんですけど、もう自分は一人で行ったんで、全然決まり事とかではないんですけど、一応最後は神頼みかなと思っていきました」 ――指名を待っている間は深呼吸をされたり、緊張されているという印象でした。実際どうでしたか。 「緊張はしてましたし、シンプルに緊張してたのと、カメラ慣れもしてなかったんで、ずっと撮られてるっていうのが嫌っていうか、早く終わってくれないかなっていうのもあったみたいな感じです。(石原さん蒔田さんが結構お話されてる中で、希由翔さんと村田さんはあまり喋っていない印象でした。緊張すると喋れなくなるタイプだったり)別にそこまで気にしてないですけど、さすがに選ばれるまでは気抜けないなっていう感じだったんで、気を抜かずに、何があるかわからないんで、集中してというか、待ってた感じですかね」 ――今回は競合が多くドラフト1巡目が22回も呼ばれました。その度に緊張したりしましたか。 「うーんまあそんなにないですけど、長いなと思いながら、やっぱり呼ばれる瞬間というか、その瞬間は楽しんで見ているんですけど。こんなに長かったっけ、4年前見てたときもこんなに長かったっけ、みたいな感じでした。昨年もその前とかもずっと見てるけど、こんなに長かったっけって。(ロッテの指名前には隣の村田さんと『ピッチャーでしょ』という風に話していましたが、正直、ドラ1はないかもなと思いましたか)元々そんなに思ってなかったんで、呼ばれたらラッキーだなと思って待ってたのでそんなに期待もしてなかったし、あの巡り的にピッチャーだろうなみたいな予想はしてたんで、そういう会話してたかは忘れたんですけど、でもそういう気持ちではいました。ピッチャーだろうなって」 ――その中で名前が呼ばれた瞬間、まず何を思いましたか。 「シンプルにほっとした気持ちが大きかったです。(3年次から密かに口にしていたドラ1という点については)いや正直全然実感湧いてなくて、まだ自分があそこでプレーを本当にするのかっていう感じなんですけど、これから少しずつでいいから実感して自覚とか責任とかしっかり持っていけたらなっていう感じです」 ――ドラフト1位でプロにまでなれた理由はご自分の中ではどう考えていますか。 「全然実感湧いてないんですけど、やるべきことをやってきたと思うので、運もあったと思うんですけど、諦めずにやり続けてよかったなっていう感じはしてます。(自分の中で誇れる部分は)いやあ全然ないですけど、継続してやってこれたっていう。これがっていうのはないですけど、4年間通して継続して何事もこつこつできたっていうのが少しの自信にはなったのかなっていう感じはします。(継続できた理由は)プロに行きたいっていう気持ちもあったんですけど、シンプルに野球で成長したいっていう気持ちがあったので、打ちたい、走りたい、守りたい、投げたいって、全ての項目においてのレベルを常に上げたいなっていう気持ちでやってたので、一歩一歩上げていけたっていうのが自分の中でも楽しさの一つでもあったのかなっていう感じはしてます」 ――高校でプロに行く選択はされなかった。そのことが大学野球生活のモチベーションになっていたりもしましたか。 「モチベーションではないですけど、プロに行くためにやろうと思って4年間やってたんで、でも行けなくてもこの4年間っていうのは大事な時間になるだろうなと思って入ってきたので、今思ってもいい時間を過ごせたなっていう風に感じてます」 ――ドラフト会議の後、周囲からはどんなメッセージがありましたか。 「おめでとうっていう言葉もたくさんの人からいただきましたし、たくさん祝っていただきました。(通知は何百件とか)200か300ぐらいは来ましたね」 ――会見で『開幕一軍』を書く前に『応援される選手』というのをご自身は書こうとされていて、実際弊部向けに書いていただきました。その目標を思いついた理由はありますか。 「自分的にもみんなにそうやって目標とか言うのはあんまり好きじゃないので、応援される選手を目指すっていうのを自分は掲げてやっていたので、みんなというか、自分の口からみんなに伝えるのはそういうことかなという感じで最初に言いました。(実力、結果の部分は自分の中に秘めておきたいみたいな)言う必要ないなと思いますし、結果を言うのは見ている人たちだと思うんで、自分がそれについてどうこう言っても意味がないと思うんで、自分から(結果を)言うのはあんまり好きじゃないんです」 ――登場曲を今選んでくださいと言われたら、何を選びますか。 「え~、なんだろうね、もう全然これっていうのはないんですけど、自分で決めないと思います、多分。周りに聞きながら、どんな曲がいいって周りが言ってくれたやつにしようかなと今は思ってます。(その周りっていうのは誰)同期もそうですし、弟とかも誰でもいいんですけど、誰かに聞いて」 ――これからオフに入りますが、何をしようと考えていますか。 「いやでも本当に1軍目指してやりたいし、選んでいただいたからには貢献したいという気持ちが強いので、ドラフトまでの期間、引退してから3日間ぐらいはだいぶ緊張もしましたけど、リラックスもできたので、ここからまたもう1回目標立てて今ある課題をしっかり潰して野球をやりたいなっていう気持ちではいます」 ――ありがとうございました。 [栗村咲良]READ MORE -
(116)大学野球引退インタビュー 村田賢一投手
硬式野球 2023.11.15(この取材は10月28日に行われました)村田賢一投手(商4=春日部共栄)――ドラフト会議お疲れ様でした。 率直な感想はいかがですか。 「一番は安心しました。 選ばれるとは信じていましたけど、呼ばれるまでわからないのでね」――福岡ソフトバンクホークスの印象はいかがですか。 「競争はやっぱり激しいと思います。4軍までありますし、投手も先発中継ぎともにそろっていると思います。(先発をやりたい気持ちは強いですか)やりたいはやりたいですけど、宮田さんからは、 摂津選手みたいな感じで、最初はリリーフからスタートして、投げられるようになってきたら、いいんじゃないかっていう風なことを言われたので、そういう感じなのかなとは思っています。投げられるだけでうれしいので、いずれはやっぱり先発やりたいなっていう感じです」――同期には、六大学で敵だった廣瀬選手(慶大)がいます。 「ジャパンでも一緒にやってましたし、ドラフト終わって携帯見たら、岩井(名城大)と廣瀬で、同期会っていうグループができていたので『よろしくね』みたいなあいさつはしたから心強いです。ただ、明治の先輩がいないっていうのはありますね」――ドラフトの前は不安な気持ちが一番大きかったですか。 「前日は寝れたんですけど、やっぱり始まってからの方がフラッシュも強いし、カメラの数もすごいし、当日の方がどきどきしちゃいましたね。前日はちゃんと22時に寝ました」――プロに入ったら、どういうところでまずアピールしていきたいですか。 「やっぱりコントロールでアピールしていきたいなと思うので。そこが最初かなとは思うんですけど。コントロールを崩さず、スピードを出していくことで、より抑えられる確率も高くなると思うんで、頑張っていきたいです(村田投手のようなタイプはプロではあまりいない)スピードないからプロに行けないっていうけど、スピードない人の方が、結構勝ってるんじゃないかと思っちゃうから、伊藤将司選手とか、西勇輝選手もそうだし、村上頌樹選手(共に阪神タイガース)もそうじゃん。ライアン小川選手(泰弘・東京ヤクルトスワローズ)だって、そんな速い訳ではない。和田毅選手(福岡ソフトバンクホークス)もいて、加藤貴之選手(日本ハムファイターズ)もいて、そんだけいるから、別にいいんじゃないかなって思っちゃうけど。とりあえず、やれることをやるだけです」――今季は振り返っていかがですか。 「もう完全に調整不足というか、8月から肩痛めて(調整が)足りてないし、その中で投げなきゃいけなかったっていうところで、前半戦はある程度まとめてた感じはあるけど、慶應になってから打たれ出したし、何が足りないのかも自分で分かったから、最終戦では最低限はできたから、それは良かったんじゃないかなって思います。本当は法政の感じが、1戦目東大からやってなきゃいけない。調整不足っていうのが一番大きかったです。焦りもありましたし、良くなかったですね」――気付けた課題はどういうところですか。 「やっぱり真っ直ぐじゃないですかね、どう考えても。コントロールピッチャーとは言っても、ある程度の真っ直ぐはないとダメだなっていうので。前半戦から慶應戦にかけては全然球が行ってなかったし、分かっていたことだから、何とかしなきゃいけないなっていうようなところで、後半戦は修正していった感じです(法政戦では振り切って直球で押していく感じに見えた)ああいうことじゃないですか。やっぱり真っ直ぐがある程度あるから、変化球も効いてくると思います」――明大での4年間も振り返っていかがでした。 「いい大学生活だったなと思います。約半分、優勝できているわけだし。1回は全国優勝させてもらって、1回は準優勝だったけど、そこまで行けて。全日本選手権にも、2回行けて幸せだったんじゃないですか。楽しかったですね(入学してきた時は)正直1回優勝できるかどうかだったかなっていう感じで、こんなできるとは思っていなかったですね」――4年間で一番印象的な試合を教えてください。「全国優勝した試合は印象的だったなって感じです。それはやっぱり、あんだけ最後まで長く投げれるなんて思わなかったし。初めて日本一だし。そういう感じだね」――エースとしての1年間は、振り返っていかがでしたか。 「勝ち点は9合計で取れて充実した1年間だったなってのは思いますね。 秋も、慶應戦だけだったから、そこだけだったなっていう悔しさはありますけど、結果的に俺が勝った時に全部勝ち点取れていて、良かったんじゃないかなと思います」――この4年間で、一番刺激をもらった人は誰でしょうか。 「今でも、やっぱり竹田さん(祐選手・令4政経卒・現三菱重工West)じゃないですかね。今回も正直ちょっと残念でしたけど。でも、あの人からいっぱい教えてもらったので、そのおかげで僕はプロに行けてると思うんで、あの人のおかげだなと思っています」――最後の1年間は蒔田稔投手(商4=九州学院)と石原勇輝投手(商4=広陵)と3人組で取り上げられることも多かったと思います。 「そうですね、でも一人一人タイプが違うっていうのを理解してたので、そこは自覚に任せる部分だと思うんで、それが強かったんじゃないかなと思います。(自分のやるべきことがそれぞれ分かっていた)役割で、石原も(先発リリーフ)どっちもやってたし、蒔田もどっちもやったし、自分もたまにリリーフやってたし、 その役割っていうところが、全うできたんじゃないかなと思います。(2人に対してはどんなことを思っていますか)蒔田は一緒にやってきて良いピッチャーっていうのはわかっていて、2年後来てくれると思うし、石原も含めて、2人がいたから楽しかったと思うので、本当に2人がいなかったら、もうちょっと楽しくない大学野球生活だったんじゃないかなって思うと、居てくれてよかったと思います。(楽しくないというのは)結果的な面もそうだし、練習の時とかも、2人と楽しくやってきたんでね」――明大に入ってきた時は、もちろんプロ野球選手になるという目標で入ってきたと思いますが、それをかなえることができたのは自分の中では何が大きかったですか。 「よく言われることだと思うけど、いかに自分が足りてないことに気付くかっていうところは、必要だなって思いましたし、確実にそこに気付けたんじゃないかなと思います。これから先、まだまだ足りないことが多いので、もう1回、何回か考えの変化とかが必要なのかなとは思いますけど、4年間でそれが1回も2回もできたのはよかったなと思います」――残りの学生生活でしたいことはありますか。 「相変わらずやるべきことを考えると思うし。ただ、やっぱり福岡行っちゃうんで、あいさつとかしっかりやっとかなきゃなっていうのは思います。あとはゴルフです。当然あっち(福岡)でもやりますけど」――来年度の明大はどんなチームになりそうですか。 「今年よりは間違いなく、守備のチームになるかなと思います。やっぱり希由翔(上田主将・国際4=愛産大三河)が抜けたのもでかいし。堀内(祐我内野手・文4=愛工大名電)が抜けたのも多分でかいと思うし。さらに、これだけ下級生が出てきたから対策もされると思うしね。なかなかきついんじゃないかなと思いますけど、そこは打ち破ってきてほしいなと思います(期待している選手は)岡田(啓吾内野手・商1=前橋育英)。顔が良い。それはそうなんだけど、実力も本当にあると思っています」――4年間終わって一番感謝を伝えたい人は。 「やっぱ親じゃないですかね。両親ともに。やっぱり親父はずっと野球を教えてくれましたし、 母親はいろんな面でサポートいただいたんで、感謝しています」――あだ名のナセルの意味を教えてください。 「俺も本当によくわからないんですよね。(ではフェンは)簡単な話よ。蒔田から変人って言われてて、賢一と変人の間を取ってフェン。(それは部内で浸透してるんですか)いや、してないよ。ジャパンでは流行ってたけど、ここでは蒔田しか言ってない」――最後になりますが、ファンの方にメッセージをお願いします。 「ここまで応援していただいて、本当にありがとうございました。ここから先は、福岡女子が、ファン層ということで(笑)。冗談ですけど、まだ関東圏でしか広まってないと思うので、九州の人にまず知ってもらえるように頑張ります」――ありがとうございました。 [中村謙吾]READ MORE -
(115)大学野球引退インタビュー 石原勇輝投手
硬式野球 2023.11.15(この取材は10月28日に行われました) 石原勇輝投手(商4=広陵)――優勝に届かなかったですが、今季を振り返っていかがでしたか。 「今シーズンは4連覇が懸かったシーズンで、みんな緊張とか背負うものは大きかったと思います。序盤はみんな自分の野球ができたと思いますが、後半からどんどん崩れていって。自分も含めて全員悔しいっていうのは言ってたので、悔しいシーズンだったかなと思います」 ――法大3回戦では2アウトで菅原謙伸捕手(政経4=花咲徳栄)と笑顔で話す姿がありました。 「『大学いい思いさせてもらったのもお前のおかげだから』って言ってくれて。最後いい形で締めようっていう話をしました」 ――今季で一番良かった登板を教えてください。 「早稲田の試合ですかね、自分の中では。慶応はちょっと3者凡退のイニングが少なかったので。でも三振を取る部分では自分のピッチングができたかなと」 ――高校ではエースではありませんでしたが、当時を振り返っていかがですか。 「実力の世界なのでもちろん悔しい気持ちもあったんですけど、河野(佳選手・現広島東洋カープ)はジャパン候補のピッチャーでもあったし、実力もあって当然かなという気持ちもありました」 ――明大に入学した経緯を教えてください。 「高校でも人間力っていうのは大事にしてて。人間力を重んじてる大学だったのと、やっぱり六大学で野球をしたかったので。高校の監督には六大学に行きたいですって言いました。それで明大から声を掛けていただいた感じですね」 ――明大に入学後、球速が大幅にアップしました。「トレーニングをしっかりやったことと、ご飯だったりの体作り。栄養を取るっていうことを頑張ったら、出せる出力っていうのも大きくなって、その分やっぱ球も速くなったのかなと思います」 ――武器である直球に磨きがかかった4年間だったと思います。 「自分のストレートは綺麗なストレートじゃなくて。動いたりしたりするのでバッターからしたら打ちにくいのかなと思います。あと自分のピッチングフォームがちょっと人とは違っていて。タイミングが取りづらいと思うので、それがいい結果につながっているのかなと思います」 ――中井哲之監督(広陵高)も「石原は体ができてくれば面白い」とあるメディア媒体で話されていました。 「そんなこと言ってくれてたんですね(笑)。ここに入ってきた時は体重71キロで、今89キロあって。元々ほんとに食べるのがあまり好きじゃなくて、ウエートとかも全然できなかったんですけど、大学で活躍するためには体を大きくしないといけないと思っていたので、体ができて技術も上がったのかなと」 ――明大での4年間を振り返っていかがですか。 「ほんとに自分の中では成長できた4年間だったなと思っています。ピンチになっても動揺せずにしっかりと自分のピッチングができることが一番成長したかなと思います」 ――野球以外で成長した部分は何かございますか。 「自分ちょっと人見知りなところがあって、初対面の人とあまり話せなくて。最初の方は首脳陣とかそういう人たちと話す時は、ちょっと話せなかったんですけど、この4年間で報告、連絡、相談っていう部分をしっかりするようになったら、自然とそういうのも解消されていって。自分が思ってることとかを素直に伝えられるようになりました」 ――1年次に思い描いていた姿と比べていかがですか。 「途中までは順調に来てるかなと思っていたんですけど、3年生の初めにちょっと挫折して、今思えばここが自分の中で結構大きな分岐点だったかなと。 あそこで頑張れたから今の自分があると思います。思い描いた大学生活とはちょっと違ったんですけど、最終的にはプロ野球選手になることができて良かったかなと思います」 ――下級生の頃はよく帽子を落としていた姿が印象的でした。 「『頭振るな』とはずっと言われていて、言われた当初は『どうやって投げるんだ』みたいに思ってたんですけど、トレーニングセンターに行ってるんですけど、そこの人に聞いたりして、野球の知識を増やして。そしたら振らない方がメリットが多いっていうのに気付けて。それで、どうやったら振らなくなるかっていうのを模索したら、自然と落ちなくなりました」 ――不調に陥った3年春は振り返っていかがですか。「半分野球を諦めていましたね。ああやって村田(賢一投手・商4=春日部共栄)と蒔田(稔投手・商4=九州学院)が活躍していて悔しいというか自分は何をやっているんだっていう気持ちと、このまま2人に任せてもいいやっいう気持ちもあって。正直ちょっと腐っていた時期でした。でも同級生だったり、親だったり、中井先生だったり、もちろんここの首脳陣の方からも『野球頑張れ』と言ってもらって、それがあって今の自分があると思います。感謝しています」 ――3年春はオープン戦では結果を残していました。 「その年から神宮の球場が固くなったんですけど、3月の社会人対抗戦が神宮であった時に高いマウンドへの対応ができなくて。明治のグラウンドは柔らかかったのでタイミングが合って投げやすかったんですけど、神宮に行ったらそれができなくて。不安な気持ちのままリーグ戦入って、それが悪い方向に行ってしまいました」 ――4年春には村田投手がエースナンバーを背負うことになりました。 「まあ悔しい気持ちと、でもほんとに村田が良かったのであれがエースなんだなと思って。蒔田とも2人で話して『村田がエースなら、仕方ない。村田を支えられるようなピッチングしよう』っていうは話しました」 ――4年春の優勝報告会でも「村田、蒔田に負けないように頑張ります」と話されていました。 「本当に刺激をもらいましたね。自分の野球のモチベーションにもつながっていて、この4年間なくてはならない存在でした」 ――4年間で一番印象に残っている試合はございますか。 「3年春の慶應戦です。追い上げムードの中、自分が投げて打たれてしまって、その試合を落としてしまって。あの試合がなかったら今の?自分はないと思いますし、あそこでもう1回頑張ろうと思えたので、大きな分岐点というか、自分の中で大事な試合だったかなと思います」 ――高校、大学とエースナンバーを背負うことはなかったですが、そういった状況でも頑張れた原動力を教えてください。 「高校、大学とレベルが高い中で野球ができて、同級生、下級生、上級生のピッチャーの中にもプロに行けるレベルの人がたくさんいて。そういった中で野球ができたので、モチベーションを高く持てて、エースナンバーじゃなくても自分の役割を全うできたんだと思います」 ――ご自身の性格で何か野球に生きている部分はございますか。 「負けず嫌いは本当に生きたかなと思います。小さい頃は兄の背中を追いかけてきましたし、負けず嫌いというか負けたくないっていう気持ちがあったのでここまでこれたと思います」 ――ドラフト会議にて東京ヤクルトスワローズから3位指名を受けました。 「まさか3位で呼ばれるとは思ってなかったので。本当にびっくりしました。記者会見の時も全然実感湧かなくて、 ほんとに選ばれたんだなみたいな感じでした」 ――ドラフト前の取材では「だんだんと、緊張している」と話されていました。 「ドラフトまでの1週間全然寝れなくて。1人になったらドラフトのこと考えちゃうんで、夜は同級生の部屋に一緒にいたりして気持ちを紛らわせてました。でもやっぱり寝る前とかは考えてしまって、寝れない日々が続いていました。前日も全然寝れなくて、どうしたらいいか分からなくて。考えても意味ないじゃないですか。でも、考えてしまって。結局、3時ぐらいまで寝れなかったです」 ――ドラフト当日はどのように過ごされましたか。 「眠くても寝れなかったので、朝もパッと起きて。ご飯食べて動こうとして、でも眠くて。でも寝れなくて、気分転換に練習してという感じですね」 ――高太一選手(大商大)が指名された瞬間は、笑顔とともに悔しそうな表情も見られました。 「あれは悔しかったですね(笑)。うれしいっていう気持ちももちろんあるんですけど、前日とかも電話してやり取りしてたんですけど、同級生で頑張ってて、うれしいっていう気持ちと悔しいっていう気持ちがありました」――指名会見はいかがでしたか。 「あの時は頭が全然回ってなくて『うれしいです』しか言った記憶がないです(笑)。考えとけよとは言われていたんですけど、いざ座ったら何言ったらいいのか分かんなくなって(笑)」 ――どなたに一番最初に連絡されましたか。 「両親には一番初めに連絡して、その次に中井先生に掛けたんですけど、つながらなくて。お世話になった方、日頃からお世話になってる方に、徐々に電話をかけていた感じです」 ――ご両親からはどのような言葉を掛けられましたか。 「家に家族みんな集まって、親戚とかもちょっといたらしくて。電話を掛けたら隣で、ばあちゃんとか泣いてくれてて、『ほんとにおめでとう』って言ってもらいました。まだスタートラインに立っただけなんですけど、幼い頃から夢であったプロ野球選手になれて、親とかからも『本当に嬉しい』って言われて、自分の中でも喜んでる姿を見ることができて良かったです」 ――中井監督とは話をされましたか。 「いや、後日かかってきてお話ししました。『スタートラインに立っただけだから、ここからが本当の勝負』っていうのは、言っていただいたので。これからが本当の勝負だと自分でも思っているので、気を引き締めて生活していきます」 ――高校同級生投手で3人プロ野球選手になるというのは、非常に珍しいことだと思います。 「河野と高とも話して、同級生でこれだけプロがいるのはほんとにうれしいし、誇りだしっていう話はして。でも本当にここからが勝負なので。3人それぞれがどれだけ野球を長くできるのかちゃんと考えないといけないなと。浮かれた気持ちは一切なくて、しっかり野球と向き合ってプロ野球生活を頑張っていこうっていう話をしました」 ――ヤクルトのユニホームが似合っていると話題になっていました。 「明治のみんなもすごい似合ってるって言ってくれてて。自分も鏡見た時に似合ってるなと思いました(笑)」 ――大学時代は打撃も武器としていましたが、プロ野球でも打撃をしてみたい気持ちはございますか。 「いや、したいです。バッティング練習はそこまで好きではないんですけど、打席は好きなので打ってみたいです」 ――これからプロ野球選手としての生活が始まります。 「スタートラインに立っただけなので。自分の目標はプロで長く生活して活躍できる投手を目指しているので、その目標を達成できるように日々の生活から気を引き締めて頑張っていこうと思います」 ――最後に4年間応援してくださったファンの方に何かあればお願いします。 「4年間応援ありがとうございました。これからも神宮球場で投げる機会をいただいたので、気が向いたら応援してくれると本当にうれしいです」 ――ありがとうございました。 [伊藤香奈]READ MORE -
(114)大学野球引退インタビュー 蒔田稔投手
硬式野球 2023.11.15(この取材は11月2日に電話にて行われました。) 蒔田稔投手(商4=九州学院)――ラストシーズンが終わって実感はいかがですか。 「もう六大学でできないので、そこに関して寂しさはあります。今はフレッシュトーナメントのサポートとドラフトがだめだったので野球を忘れる期間に入っています」 ――今季を振り返っていかがですか。 「チーム的には投打がかみ合わなかった、春だったら大量得点を取ったりしてたんですけどそれができず、ピッチャーも初回で試合を決められたりリードをしても守れなかったっていうところがあると思います」 ――今季は最優秀防御率に輝きました。振り返っていかがですか。 「なかなか取れないですし自分の中でベストナインはあったんですけど、(最優秀防御率賞は)取ったことなくて、受賞した人は結構プロとかでも活躍してるので、絶対に取りたいなっていう気持ちでした。(タイトルを取れた要因はございますか)ピンチを招いても粘れたっていうか、完璧に抑え込んだっていう試合はないんですけど、ピンチの場面をつくっても緩急であったりインコースのストレートであったり最小失点で切り抜けたり、そういう要因かなと思います」 ――ベストナインを獲得された3年次春と今季の投球に違いはございますか。 「3年の春はやはりスピードが出て真っすぐで押していくイメージがあったんですけど今回は試合をつくるための投球とか、いい意味でも、チームのことを考えたピッチングができるようになったかなと思います」 ――結果が出ない時はどう練習と向き合ってこられましたか。 「去年の秋とかはこなすだけだったんで。でも春からはきちんと自分のためになるっていうか、 もう一回自分のためになる練習をしました。あと人より無駄なことをやったっていうか、やらなくてもいいことをやったり、やはりそれが自分の中で結果を出せる近道かなと思います。(無駄なことでも、それをやることで自信になりますか) そうですね、やはり自信はついてきたので。六大学で一番打たれていないっていう最優秀防御率なのでそこはうれしいです」 ――練習の中で継続したことはございますか。 「よく言いますけど、アメリカンノックとかオフの日にジムに通ったり、決められた練習外のところでも、そういう練習をやったことがやはり良かったかなと思います。(練習量は4年生になって変わりましたか)それは全然違うものです。3年の春に結果が出て慢心していた部分も今考えてみればあるかなと。そこに気づくのが少し遅かったっていうのが今回のドラフトとかの影響もあると思うんですね。そこは自分の反省として今後につなげていきたいなと思います」 ――一番刺激を受けた同期はどなたですか。 「石原(勇輝投手・商4=広陵)だったり村田(賢一投手・商4=春日部共栄)は仲良かったですしライバル視もしてました。でもあいつらが(プロに)行けるなら俺も行けるだろうっていうのもありますし、そういう思いを持ってもっと取り組みたいです」 ――後輩に伝えたいことはございますか。 「チャンスがもらえないんじゃなくて、チャンスをもらえるようにどういう練習をすべきかとか、行動すべきか、 そこはやはり伝えたいですね。(来季期待したい選手は)浅利(太門投手・商3=興国)とか藤江(星河投手・政経3=大阪桐蔭)とか千葉(汐凱投手・営3=千葉黎明)、やはり4年生のピッチャーが引っ張っていかないとだめだと思います。まだ固まって練習するような感じが見受けられるので、しっかり競争意識を持ってやってほしいですね」 ――プロを目標にしたことで成長できた部分はございますか。 「春は上がり切らなかったんですけど、全日本選手権と秋に向けていい成績を残せたのでそこは目標にして良かったと思います。ですが結局プロにはなれていなくて、社会人行くことになるのでそこの悔しさはあります」 ――プロ入りに向けてご自身の中で足りないと感じるものはございますか。 「やはり特徴がないってことが一番です。真っすぐのスピードももっと上げないといけないですし、決め球も作らないといけないし、クイックも速くしないといけない。そこら辺だと思います(2年後はどのような投手になっていたいですか)即戦力で投げられる投手になりたいです」 ――ありがとうございました。 [久和野寛人]READ MORE -
(113)大学野球引退インタビュー 堀内祐我内野手
硬式野球 2023.11.14(この取材は11月7日、電話にて行われました) 堀内祐我内野手(文4=愛工大名電)――リーグ戦を振り返っていかがでしたか。 「なかなか思うようにいかなかったリーグ戦だったかなと思います、久しぶりに。(個人としては)結構苦しいリーグ戦だったので、あまりチームに貢献できなくて悔しかったですね」 ――法大2回戦では猛打賞を記録しました。「2勝しないと優勝が消えるっていう試合で気持ちも入っていましたし、そこでいい結果が出たので、個人としては良かったです」 ――守備の方はリーグ戦を通していかがでしたか。 「そんなに良かったわけではないんですけど、あまりひどいようなこともなかったので、まあまあかなと思います」 ――リーグ戦期間中、4年生として意識していたことはございますか。 「来年にいい形で後輩たちがいけるように。やりやすい環境というか、色々声掛けたりとか。来年の新チームの準備になるようなことはしていたかなと思います」 ――2季連続のベストナインを受賞されました。 「最終戦、法政の3試合目でもう一回猛打賞とか打ってたらもしかしたらあるかなと思っていたんですけど、打てなかったので、諦めていました。まさかでしたね」 ――この1年間を振り返っていかがでしたか。 「日本一を目指してやってきたんですけど、それを達成できなくて悔しかったんですけど、でもやってきたことに悔いはないです」 ――「悔いはない」というのはどの部分でしょうか。 「1年間、全力を尽くした結果だったので。なんて言うんですかね、後悔する部分はないかなと思います」 ――副将としての1年間はいかがでしたか。 「副将として、キャプテンの近くで動いてて、キャプテンの大変さとかはすごい感じましたね。プレーとかのやることはあまり変わらなかったですね」 ――上田希由翔主将(国際4=愛産大三河)とは高校時代からの仲だと思いますが、ドラフトはいかがでしたか。 「個人的にもプロ野球に行ってほしかったですし、まあちょっと関東と東海で離れてしまうので、もうちょっと近くのチームに行ってほしかったなというのはあります(笑)」 ――4年間を振り返っていかがですか。 「1、2年生の頃はちょっと長いなと思って日々を過ごしてたんですけど、終わってみたらあっという間だったなって感じです。充実してる4年間でした」 ――野球をやめたくなることはございましたか。 「やっぱり結果が出なかったり、ミスしたらもうやめたいと思うんですけど、それを思ってても仕方ないな、しょうがないなというのは最近思って。それを感じています」 ――自分の中で一番満足度が高かった時期を上げるとしたらいつ頃になりますか。 「3年生ですかね。3年生の1年間だと思います。試合にも出始めた頃で、一番自分でも変われたのかなと思います」 ――一番印象に残っている試合を教えてください。 「やっぱり3年春の初めて優勝したときですね。蓑尾さん(海斗捕手・令5文卒=現Honda熊本)の犠牲フライで決まったやつです。ホームに帰ってきて、まあ思い出というか一番記憶に残る試合だったかなと思います」 ――4年間で一番成長した点はどこだと考えていますか。 「いろいろありますけど、野球以外の部分ですかね。日頃の生活というか、人としての部分、人間性の部分かなと思います」 ――明治に来て変わった部分はございましたか。 「やっぱりうまい選手がたくさんいて、上には上がたくさんいるので。そこに追いつき、追い越そうって思えたのは大きかったですね」 ――宗山塁選手(商3=広陵)とは1年間二遊間を組みました。 「送別会の時にも、『村松さん(開人選手・令5情コミ卒=現中日ドラゴンズ)と自分と組んで良かった』ってあいつも言ってくれたので、来年は誰と組むのか分かりませんけど、二遊間でまたうまくやってくれたらいいかなって、やってほしいなと思っています」 ――期待している後輩はいらっしゃいますか。 「そうですね、1年の友納くん(周哉内野手・文1=福岡大大濠)には期待してます。フレッシュとかでも活躍していましたし、試合に出れるんじゃないかなと思っています」 ――大学では主にセカンドを守られましたが、社会人野球でショートに再挑戦したい気持ちなどはございますか。 「そうですね、やれと言われたところをやるしかないとは思っています。それがサードとかショートとかでもしっかりこなせるように、今の時期から練習をしっかりしていきたいです」 ――明大で学んだことで社会人になっても生かしていきたい部分はございますか。 「そうですね、やっぱり人として社会に出ても恥ずかしくないようにっていう部分で4年間鍛えられたので、そこですね」 ――最終的な野球人生の目標を教えてください。 「この2年、これからの2年間は勝負だと思います。結果を出してプロに行けたらいいなと思うんですけど、野球はどんな形でも続けていきたいなと思っています」 ――最後にファンの方へ何かあればお願いします。 「これからも野球を続けるので、これからも応援お願いします!」 ――ありがとうございました。 [伊藤香奈] READ MORE -
(112)大学野球引退インタビュー 斉藤勇人外野手
硬式野球 2023.11.14(この取材は10月28日に行われました) 斉藤勇人外野手(文4=常総学院)――ラストシーズンを振り返っていかがですか。 「最後のシーズンということで、開幕戦などスタメンで使っていただいて素直にうれしかったんですけど、なかなか東大戦と早稲田戦は納得のいく結果ではなくて、そこで悔しい思いはあったんですけど、とにかくチームが勝てればいいという思いがあったので、少しでもチームに貢献できるようにと思って、声掛けとか、自分の中で何とかチームを引っ張れるようにというところでやって、それで最後法政戦はスタメンで使っていただいて、そんなに結果残したわけじゃないですけど、ちょっとでもチームに貢献できたかなと思います」 ――スタメン争いが厳しかったと思います。 「外野は正直自分以外に後輩が多くて、本当にみんな頼れる後輩たちばっかりなので。自分の中では自分がレギュラーとは全く思ってないんで、ピッチャーの右左とか、そういうとことで左が来た時にたまたま自分が左予想の時にたまたま自分がスタメンとして選んでいたっていうのがあったんで。全く自分がレギュラーとは思ってないですけど、出していただいた時は自分ができる精いっぱいをと思って練習試合からやってきました」 ――法大3回戦でのタイムリーは振り返っていかがですか。 「ノーアウト一、二塁から勝負強い小島(大河捕手・政経2=東海大相模)が送ってくれて、監督さんもそういうサインを出してくれたので、何とかとにかく2点、最悪でも1点取るって気持ちでいって。一度ライトの方にいい打球というか、ちょっと切れちゃったんですけど、自分の中ではいい打球で、それがファールになって『うわ、ついてないなー』って思ったんですけど、その後飛んだ場所が良くて、日頃の行いが良かったかなと思いました(笑)」 ――ベンチで声を出していた印象があります。なぜそんなに声を掛けられるのですか。 「4年生だからこそそういうところでも引っ張れるかなっていうふうに思ってたのと、自分が1年生の時に春秋と全部ベンチ入りさせていただいてて、その時の試合に出てない4年生の先輩方のそういう姿を見て、とても重要な存在なんだなってその時に知ったので、そういう先輩方を見習ってというか、少しでもチームに欠かせないような存在になりたいなって思ったという感じです。そういう姿を見てチームが活気づいてるなって1年生でも感じられたので、そういうところを見てですかね」 ――今季の結果は振り返っていかがですか。 「チームとしての結果は春全日本で準優勝に終わって、そこからもう目標は秋日本一になることだったので、リーグ戦4連覇を目指しましたし、それが目標だったのでチームとしては悔しい結果に終わってしまったなというのはあるんですけど、チーム上田として最後らしく終われたんじゃないかなと思ってます。個人としては、自分の結果は特に4年生になってからは全く気にしてなかったんですけど、とにかくチームの勝ちにつながればと。打てて良かったです(笑)」 ――上田希由翔主将(国際4=愛産大三河)はどんな主将ですか。 「最初は希由翔自身もそうだったと思うんですけど、キャプテンとして不安に思ってたこともあると思うんですけど、副キャプテンの堀内(祐我内野手・文4=愛工大名電)、菅原(謙伸捕手・政経4=花咲徳栄)、村田(賢一投手・商4=春日部共栄)、学生コーチの熱田(泰祐・営4=明大中野八王子)に加えて自分ら4年が、希由翔がどう思ってるか分からないですけど支えて。最後はもうキャプテンとして誰よりも頼れる存在だったし常にチームのこと考えてたので、とても良いチームだなって感じられたし、それはほぼ希由翔のおかげだなって思います」 ――この4年生の代はどんなキャラクターですか。 「悪く言うと群れちゃうんですけど、よく言ったら全員が同じ方向見てるというか。特に最後のシーズンはちょっと野球継続組と就活組で毎年少し意識の差があってチームとして一つになり切れないのがあると思うんですけど、そこは希由翔がいろいろ頑張ってくれて。最後チームの全員が同じ方向向いてたなって思います」 ――大学での4年間を振り返っていかがですか。 「苦しいことの方が圧倒的に多かったんですけど、ずっと小さい頃から目標にしてた明治大学の野球部で4年間やり切れたっていうふうに後悔は全くない状態なので、苦しいことの方が多かったですけど成長させてもらった4年間だったですし、本当に幸せだったなと思います」 ――後悔がないと言い切れるのはなぜでしょうか。 「優勝したかったっていう気持ちはあるんですけど、個人としても最後ああやって少し試合に出させていただいたり、神宮でプレーする時には自分の中でできることはやったっていう気持ちで神宮に立って、ちょっと結果が出たので、そこはもう後悔はないです」 ――長かったと感じますか。短かったと感じますか。 「短かったですね。1年生の時にベンチ入りさせてもらってその後2年3年はベンチ入りできなくて、2年生の時はフレッシュでキャプテンをやらせてもらってって感じなんですけど、なんで短かったんだろう……。野球のことが頭から離れてなかったんで、短く感じたのかもしれないです」 ――影響を受けた先輩や指導者はどなたですか。 「それこそ1年生の時に4年生の姿を見たっていうのは、同じ高校の先輩でもある清水風馬さん(令3商卒)の姿。あとは一つ上の先輩だったら山田陸人さん(令5法卒・現ENEOS)。陸人さんとは半年間一緒に同部屋で過ごさせてもらって、その時に陸人さんの野球に対する向き合い方とかそういうのを見てたので、苦しい時期にも頑張れたのかなって思いますねその方々には特に。みんな感謝してるんですけど、特に感謝してます」 ――常総学院高出身の後輩へ伝えたいことはありますか。 「和田さん(慎吾さん・令2商卒)であったり風馬さんであったり、2個上の陶山さん(勇軌選手・令4商卒・現日本製鉄鹿島)だったり、みなさん副キャプテンとかベストナインや首位打者取って、すごい常総学院の先輩方が結果残してるなって思ったんですけど、自分はその方々に比べたら全く、常総学院の斉藤として明治にいい結果をもたらせなかったので、常総学院出身の選手は活躍するんだぞっていう明治の後輩たちにはそれをファンの方や明治の首脳陣の方に常総が活躍するっていうのを見せてほしいなって思います」 ――これからの目標をお聞かせください。 「社会人で野球ができる環境があるのは当たり前のことではないですし、そういう環境を与えてもらったからにはいろんな方々に感謝しなきゃなって思いますし、頑張りたいなって思ってます」 ――ありがとうございました。 [西田舞衣子]READ MORE -
(111)大学野球引退インタビュー 菅原謙伸捕手
硬式野球 2023.11.14(この取材は10月28日に行われました) 菅原謙伸捕手(政経4=花咲徳栄)――ラストシーズンを振り返っていかがですか。 「優勝できなくて、悔しい結果になったと思います。優勝したかったので、最後はやっぱり悔しかったですね」 ――法大3回戦ではスタメンでした。 「監督は対抗戦って言ってたので、まずは法政さんに勝つことだけ考えてやりました」 ――村田賢一投手(商4=春日部共栄)に対して何を意識しながらリードしていましたか。 「最後のシーズンなんで、村田にとっても悔いが残らないように投げてもらいたいなっていうのはずっと思ってました」 ――今季のチームとしての結果はどのように受け止めますか。 「勝つことは難しいなって思いましたね。盤石みたいに記者の人たちは言ってくれてたんですけど、野球の難しさというか、一球の重みを最後の最後で思い知らされるゲームが多かったですね」 ――個人の結果はいかがですか。 「春よりも試合に出させてもらって、その中で失敗もありましたし、失敗して学ぶことが多くて、今後の人生に生かしていければと思いますね。もう少し打ちたかったなっていうのはありますね(笑)。でも今の実力はこれなので、この結果と向き合いたいなと思います」 ――この4年生の代はどのようなキャラクターが多いと感じますか。 「希由翔(上田主将・国際4=愛産大三河)に聞いた方がいいと思う(笑)。人思いっていうか、自己犠牲というか、誰かのためにっていう気持ちを持ってる人がいると思いますね」 ――上田主将はどんな主将ですか。 「希由翔は、4連覇が懸かるどんどんプレッシャーが大きくなる状態の中で、本当に自分のことよりもチームのためを思って動いてくれた人だなと思います」 ――改めて4年間を振り返っていかがですか。 「失敗、後悔、そっちの方が多かったですね。やっとけばよかった、あそこでああしておけばよかった、そういうことしかないです。(ポジティブな面では)みんなに会えたことが良かったです。善波さん(達也前監督)が『大学で出会った同期とか人っていうのは一生の財産になる』って言ってくださって、入った頃は何言ってるんだろうって思ってたんですけど(笑)、終わってみたらこういうことだったんだって感じますね」 ――入学した時に想像した4年間と実際の4年間にギャップはありましたか。 「入学した頃は試合に出てる状態をイメージしてたんですけど、やっぱりうまくいかなくて。試合に出られないことを受け入れ切れない自分もいて、でも受け止めなきゃいけないつらさはありましたね。でもそれ以上に楽しかった思い出とか時間があったので、辞めたいって思った時もありましたけど、なんだかんだ辞められずみたいな(笑)。そういう感じでしたね」 ――下級生の頃の自分にアドバイスするとしたら何でしょうか。 「『もっと頭使え!』って言いたいですね。もっと頭使ってもっといろんなことにチャレンジしてほしいです。頭使ってなかったので、もっと自分のいろんなことを考えながらやっていけばよかったなって思います(笑)。それが一番難しいんですけど(笑)」 ――4年間で印象的だった出来事は何ですか。 「春の東大2回戦ですね。前日試合出てなくて、ちょっとやけくそになってて『なんで?』ってなってたんですけど(笑)。親にも出ないから来なくていいよって言ってたんですけど次の日試合出てああいう場面で結果が残せて、申し訳ないなって思いました。打席に立った時の応援団のスタンドの力がすっごいあって、あれは本当に自分の力っていうより応援してくれるみんなの力で打ったなって思います。いい所に飛んでくれたのはありますけど、まさかあそこであんなに粘ってああいう結果が残せると思ってなくて。周りの力を感じました」 ――普段から応援は聞こえますか。 「聞こえないですね打席入っちゃうと(笑)。あの時は、蓑尾さん(海斗選手・令5文卒・現Honda熊本)に『ああいう時どうしてたんですか』って聞いたら『スタンド見てたりしてたよ』って聞いてて、その時だけ冷静になれてスタンドを見たら本当に良い景色で。自分の力になってくれるものが見れたから。あの光景は忘れられないです」 ――影響を受けた先輩や指導者はどなたですか。 「いっぱいいますね、1人には絞れないですけど。高校の時の監督もそうですし、蓑尾さん、山田陸人さん(令5法卒・現ENEOS)、戸塚さん(俊美助監督)にもお世話になってますし、善波さんもずっと見ててくれて、広澤さん(克実氏・昭60文卒)もAbema見てたらよく名前を挙げてもらって(笑)、文雄さん(鈴木コーチ)もバッティングでお世話になって、西嶋さん(一記コーチ)もピッチャーのことを話して、挙げたらキリがないです(笑)」 ――これまで取材していて、後輩への思いが強いなと感じました。 「春秋で小島(大河捕手・政経2=東海大相模)が被りましたけど、まだキャッチャー歴が浅いので、もっとこれから失敗して、自分でもああしておけばよかったっていうのをどんどん経験してもらって、いいキャッチャーになってほしいです。それに負けないで中山(琉唯捕手・文3=常総学院)とか、他にもキャッチャーいますけど、絶対どこかでチャンスが来ると思うので、あきらめないで頑張ってほしいです。失敗して学んだ方が早いです。経験をもっといっぱい積んで頑張ってもらいたいですね」 ――これからの目標をお聞かせください。 「また1からのスタートで、一日、一球、もっと頭を使って大事に。また同じ失敗をしないように勉強していきたいです」 ――これからの野球人生への意気込みをお願いします。 「明治で教えてもらったことを忘れないように、明治魂を持って食らいついていきたいと思います!」 ――ありがとうございました。 [西田舞衣子]READ MORE -
(110)大学野球引退インタビュー 熱田泰祐学生コーチ
硬式野球 2023.11.13(この取材は10月28日に行われました)熱田泰祐学生コーチ(営4=明大中野八王子)――今季のリーグ戦は振り返っていかがですか。 「春は、すごいチームがグラグラな状態でスタートして、試合をしていく中で、反省点見つけて、改善してを繰り返してのシーズンだったんですけど、この秋は自分の中では、完成形に近づけた上でスタートしたシーズン。それでも、それはどこの大学も一緒だったと実感しました。最後の一球を投げ切る、一本を出すというところができなかったのが悔しいです」――「春はチームの状態がグラグラだった」。日々の練習からも感じていたのですか。 「練習もそうですし、私生活とか、寮生活もつながっていました。就活生とかもいたので、全員が頑張って、優勝しようみたいな気持ちは、正直感じられなくて、メンバーの中だけだったんですけど、秋はみんな同じ方向でみんなで頑張ろうっていうのはできていたかなと思います」――最終戦では、ノッカーもされたと思いますが、どのような気持ちでしたか。 「この大学は学生が打てないと思っていた中で、戸塚(俊美)助監督から『ラストはお前が打て』と言ってくださって、うれしかったし、緊張しましたね。(試合終わった後の、チームの雰囲気はどうでしたか)前日で優勝なくなってしまって、悔しかったと思いますが、 あと1試合やり切るだけっていうのをみんな言い合って、最後笑顔で終わろうと言ってたから、勝ててやり切ったというか、いい顔してたかなと思います」――普段の練習のメニューは、どのように決められていますか。 「学生コーチが5人いたので、まずめっちゃ話し合います。その上で、俺は選手の意見を大事にしたいから、希由翔(上田主将・国際4=愛産大三河)とかを呼んで、意見はもらっていました。(そこは選手ともコミュニケーションを取りながら)前までの学生コーチよりかはだいぶ選手と話したとは思います。(話そうと思ったきっかけは)俺が選手時代も、なんでこのメニューやんのかなって思うことがあって。そのまま流して、ただやるだけみたいな。その練習の意図を分からず、やっている選手が多いんじゃないかなって考えて、選手たちが感じている課題と、こっちが考えている課題をすり合わせないと意思疎通にならないので、話すようにしました」――明大に入って濃い4年間になった一番のきっかけを教えてください。 「一番は、やっぱり最後の1年間になると思いますね。学生コーチになってから、しんどくて、楽しかった1年間です。(しんどさはどういうところにありましたか)まず第1は、就活との両立。最後の1年は学生コーチをやっていて、他の就活生は色々休んだりしていたんだけど、俺は立場上休めないところにいました。もう1個は学生コーチになった以上、勝たせないといけないのが、役割。しかも3連覇が懸かっていたので。(最初は大変だと思います)やっぱりこっちがやってほしい練習の姿勢や雰囲気っていうのは、 選手がやってくれないとつくれない。結局やるのは選手なので、実現するためには結構難しかったです。色々話したり言ったりしてきました」――学生コーチになったのはどのタイミングですか。 「3年秋のリーグ戦ラストカードぐらいだから、10月の最後の週ぐらいですね。(どのような経緯で) 一つ上は4人学生コーチがいて。その4人が話し合った結果、何人かピックアップして、声を掛けられたって感じです。そこで了承しました。(どういう思いで引き受けた)マジで入学してからやりたくない役職だったから、もちろんしんどいし、文句も言われるし。いざ打診されてみると、3年間全く貢献できていなかったから『何をするためにこの部活入ったか』っていうのを考えて、チームに貢献して勝ちたいなって思った時には、この役職やるべきだなって思いました。(葛藤はかなりあった)選手兼任で学生コーチすることもできできましたが、やるからには、どっちか絞りたいなと思って。もし受けるなら、選手辞めることになるから引退を前に引退するみたいな。1年早く引退するっていうのは、ちょっと悔しいし。両親には選手で活躍してるところを見せたくて、支えてくれていたからこそ、親に相談したりして、めちゃくちゃ悩みました」――学生コーチになった当初の理想像はありますか。 「選手時代にBチームとかCチームの経験があるからこそ、いいところを見て、どんどんチャンスを与えてあげたいなっていう思いがありました。なので、多くの選手を推薦して、努力とか姿勢を評価できるような学生コーチだったりチームを目指していました」――熱田さんから見て上田主将はどのようなキャプテンですか。 「新チーム当初はそこまではあんまり口数も多くないタイプで。全員に対して希由翔がキャプテンとして言った方が聞くこと、学生コーチから言うことには違いがあると思っているんですけど、希由翔は、みんなの前で言うことを怖がるというか、嫌がっていて、それを全部俺に『ちょっと頼むわ』みたいな時がありました。でも2月のキャンプぐらいから自分がやんなきゃダメだって思ったのか、言うようになって。それがずっと姿勢にも表れてたし、俺も希由翔ばっかりに任せていたこともあって、細かいところまでしっかり言うキャプテンだった。言えるように変わっていったっていう感じですね。」――田中武宏監督からも『史上最高の学生コーチ』と言われていましたが、いかがですか。 「学生コーチが上に推薦した選手の活躍する場面が多くて、監督から『よくわかったね』と言われることは多かったです。あとは俺もBやCチーム出身だったからこそ、気持ちがわかるし、仲良くして気にかけていたからこそ、チームが分裂することはなかったので、そういう点も見ているのかなと。その辺が、つながっていると思います」――同期に対して思うことを教えてください。 「こんなに楽しかったのは同期のおかげだと思っています。 特に学生コーチになってからは、面倒くさいお願いもしたんですよ。特に就活生たちは、練習メインで使えなかったりして、嫌な思いもさせて。けど、それを俺に言ってこないで、黙々とやってくれたりとかしたのはすごい感謝しています」――今感謝を一番伝えたい人を教えてください。 「一番伝えたい人は、まず親はそうですけど、両親も背中押してくれたから学生コーチでも見に来てくれます。あとは希由翔かな。相談しまくったし、飯とか買い物もたくさん行ったんですけど、その時もチームの話ばっかりしていて。いなかったら、チームも成り立っていないと思います。あとは学生コーチにもわがまま言いましたね。それを聞いてくれて感謝ですし、福嶋(耕学生コーチ・情コミ3=明大中野)も順応してくれたので、期待しています」――最後に、同じ学生コーチの後輩に向けてメッセージをお願いします。 「学生コーチは本当に評価が難しい立場。勝たないと評価されない役職なので。うまくやって、選手と相談していってほしいなというのと、チームをつくるのに、嫌われなきゃダメみたいな言葉がよくあると思いますが、俺は嫌われたら終わりだと思ってやっていました。学生コーチにはついてこないから。だからこそ嫌われないように、真面目な時と不真面目な時をしっかりつくって、うまく選手をリードしてほしいなと思います。頑張ってください」――ありがとうございました。 [中村謙吾]READ MORE -
(109)大学野球引退インタビュー 石田朗投手兼マネジャー
硬式野球 2023.11.13(この取材は10月29日に行われました)石田朗投手兼マネジャー(政経4=明治)――この4年間を振り返っていかがですか。 「元々付属から入ったので、入った時の周りのレベルの衝撃じゃないですけど、それはすごく大きくて、特にピッチャーやってたので村田(賢一投手・商4=春日部共栄)だったり、石原(勇輝投手・商4=広陵)だったり蒔田(稔投手・商4=九州学院)だったり、そのレベルの中でやっていけるかなという不安が最初はやっぱり大きくて。とんでもないレベルの差があったので、それを埋めるためにどうしようかなって、もがいてきた4年間だったなって思いますし、そこのレベルが縮まったかというと、そうだとは思わないんですけど、でも自分なりにそのレベルの差を見せつけられたからこそ、取り組み方も変わりましたし、ちょっとでも差を縮めようと思ってやってきて良かったなって思う4年間だったかなと思います」 ――マネジャーと選手を兼任されているからこそ心がけていたことはございますか。 「自分の中では両方の面で言い訳しないというか、マネージャーやってるときに選手だからできないとか、選手やってるときにマネージャーだからできないっていうのは自分の中ですごく嫌で、それはしないようにというのは心がけてる部分としてはあって、やっぱりそれをしてしまうと、周りのマネージャーだけやってるマネージャーにも失礼ですし、選手だけやってる選手にも失礼なので、そこはそれを言い訳にしないように、自分が今どの立場であるのかっていうのは考えた上で、そのやるべきことに集中しようっていうのは思ったりしてました」 ――付属校から野球部に入らない選択をされる方もいる中で、野球部に入ろうと思った理由はございますか。 「元々そんな強くないチームなので、自分自身がプロ野球選手になれないっていうのは、野球をやっているうちに何となくわかるといえば分かるといえば分かるんですけど、なんで自分がプロ野球選手になれないのか、それをこの肌で感じたことないっていう言い方が合ってるか分からないんですけど、プロになれる選手となれない自分の差って何だろうとか、甲子園で活躍してる人たちと自分の違いは何だろうみたいな。それを探したいというか、体感してみたくて。自分自身すごく野球が好きだったのもありますし、野球を高校までやってみて、でも追いつかない壁があって、そういう環境で自分がどこまでできるかも挑戦してみたかったですし、もしそれがかなわなかったとしても、その差は何なのかっていうのは、肌で感じてみないとわからないことなのかなと思っていたので、そういう思いですかね」 ――ご自身の中では、チームの中での自分の役割をどう捉えていましたか。 「自分でも正直結構曖昧な立ち位置だなってすごく思ってたので、何を求められてるのかっていうのは模索しながらだったんですけど、自分が勝手に大事にしてたのは、潤滑油になることというか、チーム内でなるべく摩擦をなくすじゃないですけど、選手もやって、マネージャーもやってという立場ってやっぱり特殊なので、なるべくそこの間の摩擦だったり、指導者の方と選手だったり、マネージャーだったりの間のコミュニケーションを滞りなく行うとか、あとはマネージャーの間でのコミュニケーションにおいても、ピッチャーの間でのコミュニケーションでも、潤滑油的な役割を果たせたらいいなっていうふうには思ってました」 ――マネジャーを兼任される決断をしたときの気持ちを教えてください。 「最初驚いたんですよ。2個上の方に、選手兼マネージャーという形でやってた方はいたんですけど、どちらかというとマネージャーメインみたいな感じで、選手兼マネージャーの正確な形というのが見えない中で、戸惑いもありましたし、そもそも、選手兼マネージャーで打診されると思ってなかったので、驚きはありました。(どなたから)最初は投手コーチから話があって、その後に正式には監督の方から打診があってそこで正式に受けたみたいな感じで。選手一本でやりたい気持ちはもちろんありましたし、理想だなって、自分の中ではやっぱり4年生になる以前は思ってました。選手としてリーグ戦出てバリバリ活躍するっていうのが目標でもちろん入っているので、元々はそう思っていたんですけど、4年生になる段階では、同期すごいメンバーが集まってるので、戦力としてチームの力になるのは難しいなというのは思ってた部分で、何かしら他の役割で自分がチームに貢献しないと、チームにいる意味ないなと思ってたので、何かをやることに対しては前向きだったんですけど、それがマネージャーなんだなっていう、そこの驚きがあったという感じですね。だから葛藤は、意外と多分、みんなが思ってるほど悩んでないんだろうなと、周りの反応を見たら思いますね」――選手と両立をされる上で一番大変だったことは何ですか。 「やっぱり時間ですかね。両立っていう意味では時間だと思います。午前中練習して、午後マネージャーやってみたいなことが多かったんですけど、マネージャーの仕事は突発的に何かをやらなきゃいけないこともありますし、大きな行事というかイベントがあればそれをやらなきゃいけないので、その中で選手としての練習量を確保するのが難しいけど、やらなきゃいけないし、やりたいし、というのが難しさだったかなと思います。就活やったりしているとなおさら大変でした」 ――4年間で一番思い出に残っている試合はどの試合ですか。 「1個はやっぱり自分が投げた試合はすごく印象的です。春の立教の2回戦は。あんな大観衆の中投げたことなかったんで、でもマウンド上がった時意外と冷静だったんで、割と周りを見る余裕があって、もちろん緊張はしてたんですけど、ベンチから仲間が出している声とか、あとスタンドから出している声とかが自分の中では、すごいなというのは率直に思った試合だったので、そういう意味ではすごい印象に残っています。マネージャーをやっている中だったら、この秋の慶應の3戦はすごい印象に残っているというか、悔しかったので印象に残っていますね。スコア書いてるだけなので、別に自分がどうこうできたのかって言ったらそうでもないんですけど、やっぱり悔しかったので」 ――法大3回戦でもブルペンにはいらっしゃいました。正直、出たかったですか。 「出たかったはもちろん出たかったです(笑)。でも最後いい試合したので、そういう意味では出なかったですけど、いい試合に入れていただいたなっていう思いはあります。あと周りが出したかったみたいに言ってくれたのもうれしかったですし。(石原投手に謝られていましたよね)あ~はい、そうですね勇輝に謝られましたね(笑)あれは勇輝は2アウトランナーなしだったら監督が変えてくれるかもって思ってくれてて、それでつなぎたいみたいなこと言ってくれてたんですね。それで、1アウトからレフト前にヒットを打たれたんですけど、宗山(塁内野手・商3=広陵)が取れなかったので、宗山は勇輝に謝ってて、勇輝は自分に謝ってるっていう(笑)。そんな感じでしたね」 ――4年間でやめたい、つらいと思ったことはございましたか。 「ありましたよ。野球自体はないですけど、そもそも入るときにやっていけるのかっていう不安はありました。それが一つと、あとはマネージャーやってから、正直野球部をとか、選手をというよりは、マネージャーを辞めたいなって正直思ったことは何回もあります。こんな言い方悪いですけど、マネージャーやってなかったらなって思う瞬間って、やってなかったら練習もっとできたなとか、っていうのは思っちゃうときはあるので。それは思いましたね」 ――その中で最終的に兼任という道を選んでよかったと思いますか。 「そうですね。もちろんです。やっぱり普通の人が経験できないようなことをやらせていただいたっていうのは、大きいなとは思ってますね。やっぱり選手だけやってたら、関わることのなかった方と関わって、できなかった経験をできたので、自分自身そういう意味で成長できたなっていうのはすごく思います。あとこれはつながっているのか全くわからないんですけど、マネージャーやるようになってからというのか、4年生になってからの方が、投げる方の調子がいいっていう。自分の中で時間が限られているのでやらなきゃいけないことを絞ってやらなきゃいけないというか、それがピッチングにもいい方向に出たのかなって思っていて、そうだとしたら、良かったのかなと思ってます」 ――選手としてベンチ入りする時とマネジャーとしてベンチ入りする時の気持ちは全く違いますか。 「気持ちは違いますし、違うようにしようって心がけてた部分はあったかなという感じですかね。マネージャーで入るときは選手と同じ気持ちでいると熱くなりすぎちゃうので、なるべく広く見てというか、ベンチの中の様子だったりを見て、判断したい、振る舞いたいというのがありました。選手として入るときは正直投げることだけに集中してるんですけど、マネージャーで入るときは、なるべく広く冷静にっていうのは意識しますね」 ――同期のマネジャー2人はどんな存在でしたか。 「2人ともやっぱりチームに対する思いというか、自分たちがチームに貢献したいっていう思いはすごく強いなっていうのは、一緒にやってる中で感じる部分ではありました。選手だけでやっているときはそこまで密に関わる機会はなかったので、そこまでの熱意を持ってやっていたんだなっていう、それを強く感じた1年間だったかなと思います。自分が後から入った身なので、それにもかかわらず自分の意見を尊重してくれたりというのがあったので、そういう面ですごく感謝しています」 ――後輩たちにメッセージを 「大変なことはあると思いますけど、見てくれている人は見てくれているというのを思った4年間というか、特に最後の1年間はそうだったので、努力がそのまま報われるとは思っていないんですけど、努力する姿勢を見てくれている人は見てくれていると思いますし、諦めず努力していたら、結果として自分の実力がちょっとでも上がるっていうことを感じたので、諦めずに頑張るって簡単なようで難しいけど、地道に積み重ねてほしいなって。ここにいる選手は自分なんかより全然才能ある選手が多いので、その伸びる幅も大きくなると思うので。自分の才能に自信を持って、努力を積み重ねてもらいたいって思います。偉そうに言ってますけど(笑)。マネージャーもそうだと思います。一つ一つ仕事を丁寧にやるっていう、簡単なようで難しいことを毎日積み重ねるっていうのが大事なのかなって思います」 ――ありがとうございました。 [栗村咲良]READ MORE -
(108)大学野球引退インタビュー 森裕規主務
硬式野球 2023.11.13(この取材は10月29日、電話にて行われました) 森裕規主務(法4=滝川)――主務としての1年間を振り返っていかがですか。 「最初主務になった時のイメージと比べたら、最後そのイメージで終われなかった実感で。正直この1年間めっちゃしんどくて、うまくいかなかったことの方が多いです」 ――主務になった時はご自身でどのようなイメージをしていましたか。 「いいマネジャーがいる代はチームも強いって言われるので、それを目指して、いろんなことにチャレンジしながら指導者と選手をつなぐみたいな。けど(この1年間は)選手とのつなぎ役になれなかったというのがあります」 ――この1年間で最も記憶に残ったできごとはなんですか。 「春の慶應の4回戦です。ベンチに入ってたんですけど、チームが一つになった瞬間を感じたんで。スタンドもめっちゃ気持ちが伝わってきて、ベンチのみんなも本当に勝ちにこだわって。当たり前なんですけど、勝ちにこだわる執念とか気持ちが前に出てて、今年一番熱くなった試合です」 ――秋季リーグ最終戦、どのような心境でベンチに入っていましたか。 「朝参拝をするんですけど。(島岡吉郎元監督の)銅像のところで校歌歌って出発するんですけど、もうその瞬間からずっと『もう最後か』みたいに思って1年がよみがえってというか、今まで苦しいこともあったなって泣きそうになって。神宮行ってからも、ずっと苦しい時のことが思い出されて試合に入るまでは寂しいなって思ってました。試合中は明治の流れだったのでベンチも雰囲気が良くて、俺らの集大成みたいなのを出したから良かったなって思ってます」 ――試合前からこみ上げて。 「これも最終戦だけじゃなくて、最終戦の前に優勝がなくなって。自分は秋一度もベンチに入ってなくて、最後入らず負けて優勝なくなって、すごい悔しかったんですけど『もういいや』っていう自分もいて。けどキャプテン(上田希由翔主将・国際4=愛産大三河)と学生コーチ(熱田泰祐・営4=明大中野八王子)が『一緒に頑張ろう』みたいに声掛けてくれて。それで『ああ優勝したかったな』って。悔いは本当にないんです、でも最後優勝できなかったっていう悔しさで前の日はめちゃくちゃ泣きました。それで最後は自分たちの代の集大成を出そうって切り替えて最終戦に臨めたかなと思います」 ――この4年生はどんなキャラクターの方が多いですか。 「個性豊かです(笑)。30人全員色が違って、それが良かったなって。何事もこうやろうってなったことに対して必ずいろんな意見があることが良かったなって思います。(まとめるのは)大変だったと思います。キャプテン上田と副キャプテン3人、学生コーチの熱田が中心になってチームをつくってくれて、いろんなことを試行錯誤しながらやってくれて、あいつらはチームのことを思ってやってくれてたなって思います。あと、最後は同期に対する思いが強い代だなと思いました。試合に同期が出ればめっちゃ応援するし、掛け声とかもスタンドが大声で叫んだりとか、そういうのが良い代でした」 ――上田主将はどんな主将でしたか。 「希由翔は最初キャプテンっていうキャラじゃなかったんです、黙々とやるし、あまりしゃべらないので。けどキャプテンになってから自分のことじゃなくてチームのことを優先に考えるようになって。春は本当に、チームのためにチームのために。自分の実力とかじゃなくて、どうやったらチームを活気づけられるかみたいな。それがうまくいって春はチームの成績も自分の成績も良かったんですけど、秋のリーグ戦に入る前になかなかチームが思うようにいかなくて、どうにかしたいってなってすごい話すようになりました。4年生一人一人と話すようになって、その分厳しく接するようにもなったというか。今までは、言うと反感買うからなかなか言えてなかったんですけど、そこをチームのために厳しく言うっていう姿も見えたし、最後は本当に希由翔がキャプテンで良かったなってすごく思いました」 ――ドラフトは見ていていかがでしたか。 「これは4人とも選ばれてほしかったんですけど、3人だけでも選ばれて、もう希由翔が選ばれた時は自分のことのようにうれしくて。やっぱりマネジャーって、チームが勝った時とか選手が活躍してくれた時とかプロに指名された時にしかうれしさ味わえないから。この3人選ばれて本当に良かったなって、今まで支えてきて良かったと思いました」 ――改めて4年間を振り返っていかがですか。 「苦しかったことの方が多かったなって自分の中では思ってます。1、2年生の時はコロナで夜通し対応みたいな時もあって、もう大変だったなって。その時期って優勝もできなくて『何のためにやってるんだろう』みたいに思った時もあったんですけど、野球部に入る時日本一になりたいっていう思いがあったから、それがモチベーションで4年間続けられたなって。本当にこの4年間日本一だけを追い続けてきたから、そのためなら苦しいことも乗り越えられました。あとはこの野球部に入って人としてのマナーというか常識を学ばせてもらって。明治って本当にあまり野球の指導はされないんですけど常勝軍団じゃないですか。私生活の面を結構言われて、スリッパ一つにしても並べたり、ごみの分別一つにしても徹底したり。そういったところで120人一緒に暮らしてるからチームの輪ができて強いのかなって感じました」 ――マネジャーとして心掛けていたことや欠かさず続けていたことはありますか。 「下級生の時は毎日、誰よりも早く起きて事務室で作業始めるっていうのをずっと意識してて。6時半に全員体操する時は6時に起きてきて仕事してっていうのを欠かさずやってました。続けてきたことは、チームを勝たせるためにやってたっていうのはあって、その環境を整えること。マシーンが壊れてたらすぐに直したり、常に選手が野球をやりやすい環境だったり、野球をやりにくいと思うことが少ないように努力してました」 ――4年間で一番印象的だったことは何ですか。 「3年の時に日本一になれたことです。あの時は本当にマネジャーやってて良かったなって思えました。あの瞬間は泣きそうでした」 ――萬谷天音マネジャー(総合4=広島なぎさ)、石田朗投手兼マネジャー(政経4=明治)はどのような存在でしたか。 「朗は選手の意見をすごい聞いてくれます。自分はマネジャーで4年間やってきて分からない部分もあって、そこで選手としてやってきた朗がいてくれたから、選手ってこういうこと考えてるんだなとか、何気ない連絡とかでも選手ってこうやって捉えてるんだみたいなことも知れたし、そこに気配りがすごくできてたから、同期だけど勉強になる部分も多かったし、すごく尊敬できる存在だったなって思います。天音はずっと2人で4年間一緒にやってきたから、3年の時とか次のチームについて毎日話してました。自分は窓口になるだけで、事務作業とかはずっと天音にお願いしてて、お願いしたことは何も文句言わずやってくれるんで、マネジャーは自分だけだったら成り立ってなかったなって。自分はもうただ単に窓口になるだけで、中身開けたらちゃんとしたマネジャー2人がいたから1年間成り立ったなって思うんで、本当に2人には感謝しかないです」 ――下級生の頃の自分にアドバイスするとしたら何を言いますか。 「もっと選手と距離を詰められたら良かったなって思います。下級生の時って仕事もたくさんあって、あんまり選手と対応できなかった時もあって、それをもっとオフの時間とかも選手と一緒にリフレッシュできたら良かったなと思います。これは唯一悔いが残ってるといえば残ってますね」 ――後輩にメッセージはありますか。 「マネジャーの子たちにはこの1年間嫌なこともお願いしてきたし、不満もあったと思うんですけど、1年間一緒に仕事してくれてありがとうって言いたいです。来年は下の子たちが中心になっていくので、日本一になるチームを支えてほしいなって伝えたいです」 ――ありがとうございました。 [西田舞衣子]READ MORE