【サッカー部】邁新
歴史を継承し、さらなる進化へ。関東を2年連続で制し、12人をプロの舞台へ輩出した昨季。「今までの歴史に満足しない」(MF稲見哲行・文4=矢板中央)。さらなる進化への思いを胸に迎える今季のスローガンは『邁新』。「日本一走る、泥臭く明治らしいプレー」(栗田大輔監督)をコンセプトに、創部100周年の記念すべきシーズンにタイトルで華を添える。本特集では、そんなサッカー部の1年を追う。
-
(番外)「土壌改善がいい結果につながった」 サッカー部創部100年記念 神川明彦前監督インタビュー
サッカー 2021.09.271921年の創部から今年で100年目となるサッカー部。長い歴史の中で一つの変革を与えたのが神川明彦前監督(平1政経卒)だ。明大を大学サッカー界をけん引する存在へと押し上げた神川前監督に、その要因をお聞きした。ここでは紙面に載せることができなかったインタビューをお届けする。(この取材は9月8日に行われたものです) ――吉見章元監督からどのような点を受け継ぎ、どのような点を改革しましたか。 「受け継いだのは、自分が現役だったときから明大の良さとして感じていた、個性を潰さないという点でした。上下関係が厳しい中でも個性を生かし合うという風土はいいなと思いました。故・井澤千秋元監督とも話したのは、組織は大事だけど個性は潰しちゃいけないということで、みんな和気あいあいとやっているというか、学年ごとの役割や仕事など縦のつながりがありながらも、横のつながり意識するという部分は受け継ぎました。でも多くは変えなければいけませんでした。特に変えなくてはいけなかったのが生活習慣。ということで朝の練習を導入して、高い次元での文武両道っていうのを一つキャッチフレーズにして、当然授業には行ってサッカーも一生懸命にやろうと言っていました。もう一つ大事にしたのは、一生懸命にやっている人がきちんと評価される体制です。4年間という限られた時間の中で、日々きちんと向き合って努力している選手がきちんと評価される、そういう評価体制を大事にしました」 ――その後1部復帰から2年で3位、3年目で優勝を果たして、その後も上位をキープし強豪になった要因は何だと思いますか。 「まずは選手の質が高かったと思います。3位になった年に10番を付けていたのが小川佳純(平19商卒)で、高校時代にすごいゴールを決めて、注目されていた選手でしたが、やはり入ってきたときの風土体質が悪いから、良い種でも良い土壌じゃなきゃ良い芽は出ないし、良い作物にはならないというように、土壌が腐っていたので良い種を植えても生えてこないですよね。元々素質のある選手を獲得できていたので、土壌を改善できたことが良い結果につながったと思います。 あとは2006年に金慶大(平19文卒)という後世語り継ぐべきキャプテンがいたんですよ。彼は僕の考え方を絶対的に信頼してくれていて、ものすごく力強く前進してくれました。特に2005年はまだ学業や就活とサッカーの両立ができていなくて、就活が始まると練習に来ないというような状態でした。そこで金はキャプテンになってから、4年に対して同期に対してすごく厳しくしました。就活を理由にして練習に出ないのを許さずに5分でもいいから出て行けと。そこが一つ転機でした。2006年からは一気に成績も上がって、それはやはりキャプテンの功績が大きかったと思いますね。 そういった土壌改善というところがとても重要だったと思います。生活習慣の改善や、朝練の導入などで文武両道の実現し、今までサッカー部になかった新たな価値観を1年生で入ってきた選手たちと育んでいき、4年後結果につながった、これが一つのサイクルだったなと思います」 ――2007年の天皇杯を振り返っていただいていかがですか。 「あの試合は自分の監督人生の中で最高のゲームなんですよ。あれを超えるゲームはなかなかなくて、やはりあの試合は全てが整っていたと思います。京都サンガに勝って念願のJ1との対戦が決まって、その相手が当時J1の上位で、チョジェジンや岡崎慎司(FCカルタヘナ)など素晴らしい選手がたくさんいる清水エスパルス。そんな相手にスカウティングを徹底して、あの試合だけは普段の4―4―2ではなく3―5―2にして、スルーパスから2トップがゴールを脅かそうという作戦がありました。結果3点中2点をその形から林陵平(平20商卒)が取って、こちらの策略がハマって選手たちも自信持ってやれました。当時エスパルスで監督をしていた長谷川健太監督も天皇杯の思い出で必ずあの試合を取り上げてくれていて、本当に当時大学サッカーが脚光を浴びていない時代に大学生がJ1に牙を向ける、しかも明大が。それに2番を付けた坊主だった長友佑都(平20政経卒・現FC東京)が数年後にはイタリアでプレーしている、そういう意味ではすごく面白くて、今の明大の出発点だったと思います」 ――その2年後、大学生として初めて天皇杯でJ1に勝利しましたがその試合はいかがでしたか。 「その年は、前年に結果を残せず、その反省を受けて早い段階から動き出していた代でしたがが、その下の世代が優秀で、4年生はなかなか試合に絡めませんでした。その中でも4年生がマネジメントをしっかりして、3年生以下が気持ちよくプレーができて、下級生が湘南ベルマーレ戦で得点したり、モンテディオ山形戦でもそうで、4年生がその環境を作れたのが大きかったと思います。山形戦はスカウティング通りの戦いができて、清水戦とは違う、勝つのが前提のような状況で臨めました。直前のリーグ戦で負けていたので、山形の攻撃を防ぐ守備の練習を徹底して、攻撃はなんとかなるだろうと。いい形でボール奪えればという感じで臨んで、90分を通してほぼ明大のペースで、スコアも3ー0でしたし、清水戦とは内容が全く違いましたね。それでもその次のアルビレックス新潟戦は、当時の新潟もJ1で上位にいて、組織的なところでは戦えましたけど、個人では歯が立たなくて、余裕を持ってやられてしまったという感じですね。それでも落ちずにその後のシーズンも臨んでくれて、51年ぶりのインカレ優勝。これはやはり天皇杯で培われた、一発勝負への強さが生きた結果だったかなと思います」 ――その後入学した室屋成選手(平29政経卒・現ハノーファー69)の印象はいかがでしたか。 「室屋はよく長友と比較されますし、当時はよく比較していましたけど、室屋は明らかにプロになるという明確な目標を持って入部してきたので、目が違うというか、最初からギラギラ感があって、もう室屋は3年でプロだなと思いましたね。なので学業もしっかりさせようというのは直感的に思いました。そこはもう長友とは全然違いましたね。でも室屋が一番すごいのは、長友もそうですけど、失敗したり、こちらも指摘したりしますが、するとすぐに変えてきましたね。そういう学ぶ力というか、反発力が違ったと思います」 ――明大は今後の日本サッカー界全体にとってどのような存在になっていってほしいですか。 「やはり人材排出クラブであってほしいです。プロは数人で良くて、違う分野にも行って欲しいですね。本当にありとあらゆるところの人材になって『あの人明大サッカー部なの?』というようなことを期待しています。自分の時もプロは数人で良くて、もっと色々な進路を選択してほしいなと思います。あとはプロになるならいずれは指導者になって、人を育ててほしいとも思います。自分はよく孫選手という言葉を使いますが、自分の教え子が指導者として育てた選手が明大に戻ってくる。そういうサイクルできてくるのも面白いと思います」 ――サッカー部の後輩たちにメッセージをお願いします。 「明大のキャッチフレーズにもなっている『個を強め、世界へ』というのがまさにサッカー部に当てはまるキャッチフレーズだと思うので、明大で、そしてサッカー部で、高い次元の文武両道を実現しながら、世界へ羽ばたいてほしいと思います。応援してます!」 ――ありがとうございました。 [土屋秋喜、市瀬義高]READ MORE -
(番外)「とにかく目の前のことをやり続けるだけ」 サッカー部創部100年記念 室屋成選手インタビュー 後編
サッカー 2021.09.27ドイツで輝く紫紺の勇者。プロからのオファーもある中で明大へと進学し、1年次からトップチームで躍動。卒業を待たずしてFC東京とのプロ契約を勝ち取った日本代表DF室屋成(平29政経卒・現ハノーファー96)。ここではサッカー部創部100年を記念し制作した明大スポーツ第513号に掲載することが叶わなかった、室屋選手へのインタビュー全編をお届けする。(この取材は9月1日にオンラインで行われたものです)――最近の明大で注目している選手はいますか。 「FC東京の選手、毎年来ているので注目していますし、中村帆高(令2法卒・現FC東京)や岡庭愁人(政経4=FC東京U―18)は同じポジションで、この前試合にも出ていましたがすごく頑張っていて、前のチームで関わっている選手は特に応援したいですね」 ――日本サッカー協会が投稿していた動画の中で、南野拓実選手(リバプール)が室屋選手を漢字1文字で表すと「粘」と言っていましたが、主観的にどう思いますか。 「拓実(南野)とは一緒にサッカー始めましたが、当時からセレッソ大阪の下部組織に入って、いわゆるエリート街道を歩んでいて、自分は決してそうではなく、いつも上手くいかなくなっては、また少し上手くいってという連続のサッカー人生でした。小さい頃からずっとそんな感じなので、彼にとってはやはりそう見えるんだと思います」 ――同じ動画内で、日本代表で一番変わっている選手は長友佑都選手(平23政経卒)だとおっしゃっていましたが、どのような点で変わっていると思いますか。 「単純に物事に対する好奇心の豊かさや、コミュニケーション能力の高さとか、それを含めてすごく才能を感じるというか、良い意味で変わっているなと思います。自分にとって変わっているというのはいい意味です」 ――SBを始めたのはいつごろで、それまでやっていたポジションに比べてどのような印象がありましたか。 「SBを始めたのは高校2年の時だったと思います。それまでディフェンスを全然しない攻撃的な選手でしたが、攻撃的なポジションでは行き詰まっていると思っていたので、もうここしかないなというイメージでプレーしていました。嫌だとは思わなかったですし、ここで結果残さなければいけないなと思っていました」 ――コンバートのきっかけは何でしたか。 「当時U―17日本代表に呼ばれて、その時の監督に『SBをやってみろ』と言われて、それから青森山田に戻ってもSBやっていたという感じですね」 ――青森山田に進学したきっかけとして黒田剛監督の存在があると思いますが、どのような印象抱いていましたか。 「自分にチャンス与えてくれた人なので感謝しているのと、今は青森山田も毎年のように優勝していて、自分の時は3年間ベスト16だったので、少し考えられないというか、すごいなと思いながら見ています。自分に機会を与えてくれた指導者なので感謝しています」 ――ドイツでの生活の中で驚かされたことはありますか。 「国が違えば考え方も違うだろうと思ってドイツに行ったので驚くことはないですけど、でも日本の考え方というか『日本ってなんて良い国なんだろうな』というのはすごく感じてますね(笑)」 ――ドイツでのプレーや、言葉の壁を乗り越える上で生きたと思う明大での経験はありますか。 「サッカー面だと明大は対人練習が多く、自分のプレースタイルも明大で学んだことが多くて、対人の部分とか1人でどうにかするという部分は、大学でのトレーニングがJリーグでも生きたりしていました。ドイツに行っても結局1人でどうにかしなくてはいけない場面もあるので、そう言った点では大学で学んだことが生きていると思います。普段の生活でもやはり、苦しかった部分、寮生活から学んだことなどは生きますね」 ――理想のSB像はどんな選手ですか。 「個人で誰というのは特にいませんが、自分のプレースタイルの最大値がやっぱり理想の選手です。なので自分の得意な部分をもっとレベルアップしたいですし、自分のウィークポイントを改善したいとはずっと思ってます。それが自分の理想です」 ――明日からカタールワールドカップアジア最終予選が始まります。シーズンオフにはワールドカップも控えていて、重要なシーズンになると思いますが抱負はありますか。 「あまり目標とか抱負は考えないタイプなので、だから今年1年が大事というよりは毎年が大事だと思っています。サッカーのキャリアというのは短いので、まずはいつも通りやることが大事で、チームで結果残し続けると新しいステップも見えてくると思うので、とにかく目の前のことをやり続けるだけかなと思います」 ――最後に明大の後輩にメッセージをお願いします。 「難しいですね(笑)。今でも明大はタイトルを取っていて、良い時代、良い流れがあると思います。自分が大学生だった時は全国優勝とかできなかったので、すごいと思いながら応援しているんですが、これからも取り組んでいることに対して頑張ってくださいとしか言えないですね。本当にすごいなと思って見ています」 ――ありがとうございました。[土屋秋喜、市瀬義高]前編はこちら中編はこちらREAD MORE -
(番外)「サッカーだけではないと感じさせられた」 サッカー部創部100年記念 室屋成選手インタビュー 中編
サッカー 2021.09.27ドイツで輝く紫紺の勇者。プロからのオファーもある中で明大へと進学し、1年次からトップチームで躍動。卒業を待たずしてFC東京とのプロ契約を勝ち取った日本代表DF室屋成(平29政経卒・現ハノーファー96)。ここではサッカー部創部100年を記念し制作した明大スポーツ第513号に掲載することが叶わなかった、室屋選手へのインタビュー全編をお届けする。(この取材は9月1日にオンラインで行われたものです) ――在学時に転機となるようなポイントはありましたか 「ここがポイントというのはありませんが、普段の練習から、普段はすごく上下関係が厳しくて仕事の役割などがありましたが、ピッチに入れば何も関係がないというのが明大の特徴で、なので練習が始まったら先輩たちに対しても思いっきりやってやろうと思っていました。普段の厳しかった部分への反発を示せるのはピッチの上だけだったので、練習では絶対に負けたくないなととても感じるようになって、自分自身がすごく競争力のある、負けん気の強い人間だというのを当時に感じさせられました。それが自分は厳しい状況に置かれたら反発できる人間なんだなと感じたのがいい気付きだったかなと思います」 ――プロ1年目では主力として出場機会があった中で、2年目に振るわない時期が続きましたが、そこを乗り越えてポジションをつかみ、海外移籍を果たしたという点にはどのような要因があったと思いますか。 「自分自身それが挫折だったとは捉えていませんが、でもやはり自分の性格的に逆境に入り、うまくいかなくなったときにもう一度自分で良い方向に持っていける力があるというのが一つ大学で学んだ事だったので、FC東京で出場機会がなくなった時でも絶対にこの状況からうまく打開できるという自信がありました。その自信というのは大学でも1年生からポジション争いをできたという成功体験を持っていたからこそだと思います。それをプロに入ってうまくいかなくなったときに、その成功体験を通してそこで折れてしまわないで、もう一度良い状況に持っていけたというのがあると思うので、いつもその連続を自分がサッカー人生を通してやっているような気がします。いつもうまくいったりうまくいかなくなったり、そこからもう一度良い状況に持っていくというのを繰り返しているなと思います」 ――サッカー以外の学生生活で印象に残っていることはありますか。 「やはり大学に行ってサッカーをやっていない、サッカーを全く知らない人たちと交流する機会があって、そういう人たちの考え方などは自分にとってはすごく新鮮で、今までだったら高校もサッカー推薦で行っていたので、サッカーをしている人と仲良くして、だからそういう人たちの考え方がすごく刺激的で一番印象に残っているというか、サッカーだけではないと感じさせられた大学生活でした」 ――大学での学びが社会に出ても生きていると感じる場面はありますか。 「基本的に社会人といっても特殊な仕事なので、うまくいかなくなったときにサッカーだけになりすぎないというか、物事に対してもう少し、サッカーに対しても距離を持って考えることができるようになったかなと思います。大学に行ってサッカーをしていない人と話したりして、こういう世界もあるんだとか、こういう考え方もあるんだとかいうのを学んで、うまくいかなくなったときにもっとサッカーにのめり込んでしまうと自分は結構苦しくなってしまうタイプなので、別のことを考えたりとか、今日はもうサッカーに対して距離をおこうとか、距離を持てるようにはなりましたね」 ――オリンピック経験者として、今回のオリンピックはいかがでしたか。 「単純に日本代表でも一緒にプレーしている選手たちが試合に出ていたので、チームのサポーターとして応援していました。新型コロナウイルスの関連でいろいろなことを言われたり、開催自体についても様々な意見がある中で、難しい中で試合をしていたので大変だなと思いながらも、選手は何も悪くないので本当に応援していました。勇気というか、サッカーを通して国民の人たちも盛り上がっていたと思いますし、サッカーには力があるなと思いました」 ――日本サッカー界において大学サッカーはどういう役割を担っていると思いますか。 「欧州を基準にすれば大学サッカーは少し変わった存在だと思います。基本的に高校卒業してとか、今だったら欧州なら18歳とかでリーグ戦に出ているわけで、大学でサッカーをやるというのはプロデビューするのが23歳とかになるので、サッカー選手としてそこまで若くないし、大卒1年目で結果を残さなきゃいけないという立場になるので、欧州を基準にすれば正直少し遅くなると言うイメージが事実としてあると思います。それでも高卒でプロになれなかった選手をJリーグに送り出せる1つのクッションという役割として良い流れを作れていると思うので、そこに対して今変わらなきゃいけないとは思わないですし、日本サッカーに対して大学サッカーが担っているものというのは重要なものになっていると思うので、これを続けていければいいと思います」――栗田監督の監督としての長所はどこにあると思いますか。 「他の選手の方が栗田監督を知っていると思いますが、選手をフラットに見てくれるというか、差別がないのは選手にとって大きいし、結構ハッキリしている人なので、誰に対しても良くないことは良くないと言いますし、競争力持たせるのが上手い人ですね」前編はこちら後編はこちらREAD MORE -
(番外)「大学では組織の強さを学んだ」 サッカー部創部100年記念 室屋成選手インタビュー 前編
サッカー 2021.09.27ドイツで輝く紫紺の勇者。プロからのオファーもある中で明大へと進学し、1年次からトップチームで躍動。卒業を待たずしてFC東京とのプロ契約を勝ち取った日本代表DF室屋成(平29政経卒・現ハノーファー96)。ここではサッカー部創部100年を記念し制作した明大スポーツ第513号に掲載することが叶わなかった、室屋選手へのインタビュー全編をお届けする。(この取材は9月1日にオンラインで行われたものです) ――プロからの注目もある中で進学を選んだ理由と、その中でも明大を進学先に選んだ理由は何ですか。 「そもそも高校にサッカー推薦で入学した時点で大学に行きたいなと思っていて、高校卒業時にそのままプロに行くかどうか迷いましたが、サッカーだけではなく大学で様々な人と関わったり、学生生活を送りたいと思っていて、大学進学は予定通りでした。 明大を選んだのは、大学の中でもサッカーに対して力を入れている大学でしたし、僕より前だと当時イタリアの所属チームや日本代表ですごい活躍を見せていた佑都くん(長友佑都・平23政経卒)の影響は少なからずありました。すごくサッカーに対して熱があり、何他の大学にも練習参加をしましたが、直感ですが明大に一番アツさを感じて入学しました」 ――神川監督からは入学後、どのような点が課題だと言われましたか。 「プレーのことというよりも、メンタル面でよく怒られたりしました。具体的にはあまり思い出せませんが、自分はメンタルに波のある選手だったので、そういうところをよく怒られて、交代させられたりとか、試合出してもらえなかったりとかはよくありました」 ――室屋選手が出場しなかった試合の後、神川監督との握手で目をそらし、その後のミーティングで神川監督が激怒したというエピソードを聞いたことがありますが、当時を振り返っていかがですか。 「単純に試合に出ることができなかった悔しさと、チームが負けた悔しさがあったので、個人的にその判断は間違っていないとは思っています。後悔はしていませんが、それでも学生なら怒られるのも当然だとも思っています。怒られはしましたが、その後日に神川さんが『そういう熱のあるやつは好きだ』というようなことを言っていたので、練習の時からもそうですが、選手に情熱を引き出させるのがうまい人だなと思いました」 ――室屋選手の在学時に就任した栗田大輔監督の印象はいかがでしたか。 「栗田さんとは1年だけ一緒にやったので、栗田監督も就任初年度でしたしあまり深くは言えませんが、すごく自分を持っているというか、自分の考えをしっかりと持っている監督で、指導する時も冷静に向き合って話してくれる監督でした。神川さんとは少し違うタイプではありますが、栗田さんは落ち着いた感じで説明して話してくれる人だったので信頼できる人でした」 ――大学での4年間で最も成長したと感じる部分はどこですか。 「大学に入って組織として勝つことや、普段の生活から個人ではなく組織としてどうするか、どうやってチームを良い流れに乗せるかというのを4年生中心に学生だけで話し合うなど、組織としてどうやって強くなっていくかという、学生ならではだと思う面で成長したと思います。社会人になったら個人でお金を稼いでいくという面もあるので、学生の間にいかに自分たちで考えて組織として生活をしていくということをすごく学べたので、それがサッカーに対してどうつながったかわからないですけど、そういう考え方とか組織の強さということを学びました」 ――寮生活ではチームメイトと寝食を共にすると思いますが、それは今振り返ってどう思いますか。 「正直戻りたいとは思えないですね(笑)。でも振り返ると楽しかったなと思います。当時は苦しいこともたくさんあって、本当に学生ならではというか、今となっては全く違う生活で、今は一人でどうにかしなければいけないというのが社会人なので、そういった意味ではすごく貴重な体験だったと感じます」 ――大学の広報誌でサッカー部時代の思い出として丸刈りにさせられたことを挙げていたと思いますが、それにはどういう背景がありましたか。 「これ書いていいのかわかりませんが、個人の仕事があって、誰かがミスをすると1年生全体の責任になる、連帯責任だったので1年生みんなで話し合ってミスをなくしたりしていました。連帯責任で全員が坊主にさせられたりとか、少し理不尽ではありましたけど、思っていたのは組織の1人の人間でありながらもこの環境にどっぷり漬かったらだめだなということでした。集団に入ると、これだけが正しいことだと思ってしまうのが人間だと思うので、この形がありながらも自分の意思と言うのは絶対に持っていなきゃいけないなという考えは持っていました」 ――在学中で最も印象に残っている試合はありますか。 1年生の時にアミノバイタルカップで優勝したのが一番の思い出かなと思います。当時サイドバックに小川大貴選手(平26営卒・現ジュビロ磐田)と高橋諒選手(平28文卒・現湘南ベルマーレ)がいて、そこに自分がいて3人でポジションを争っていました。今は3人ともプロでやっているんですが、その誰が出るかみたいな、そのポジションの取り合いがすごく楽しくて、1年生の時が一番難しかったですけど楽しかったなと思っています」中編はこちら後編はこちらREAD MORE -
(番外)「(J1相手に)勝つしかないと思っていた」サッカー部創部100年記念 山本紘之氏インタビュー
サッカー 2021.09.27天皇杯全日本選手権で躍進を続けてきた明大サッカー部。2009年には大学勢初J1撃破を達成した。同大会では、明大サッカー部OBで、現在は日本テレビでアナウンサーとして活躍する山本紘之氏(平23政経卒)が『SURUGA I DREAM Award』を受賞。目覚ましい活躍を見せた山本氏に、当時の状況をお聞きした。ここでは紙面に載せることができなかったインタビューをお届けする。(この取材は9月13日に行われたものです) ――第87回天皇杯4回戦、清水エスパルス戦について覚えていることを教えてください。 「僕は1年生だったのですが、技術的には全然試合に出られるレベルではなかったというのが自分の正直な印象です。ただ僕のプレースタイルが前線からとにかく追い掛けるというスタイルだったので、そこを評価していただけたと思っています。『とにかく走れ』と言われて試合に出させてもらいました。とにかく自分はチームの役割として与えられた〝走る〟というところでチームプレーに徹しようと思ってプレーしていました。実際試合に出場したら、ヘディングや高さ、クロスに対して飛び込んでいく姿勢というのは通用するのだと感じました。その他についてはもうほとんど覚えていないぐらいただただ走っている感じでした」 ――当時の状態や雰囲気はいかがでしたか。 「J2に勝って、駒を進めてきている状況で、天皇杯で勝つことが世の中からどれだけ注目されることなのかを感じた試合でした。これでJ1に勝つことがあれば、いよいよ〝明治大学ここにあり〟ということを世の中に知らしめるタイミングだと思っていたので、本当に清水を食うつもりで戦っていましたね」 ――対戦してみて印象に残っている選手はいらっしゃいますか。 「青山直晃氏(元プロサッカー選手)ですね。僕がマークされていたのが青山氏だったのですが、北京五輪に出場された青山氏にマークされるということにドキドキしながら、チャレンジャー精神を持って戦いました。ただその中でもヘディングの競り合いで対峙(たいじ)できる瞬間というのはあったので、当時19歳だった僕にとってはとても自信になりました」 ――清水戦を終えて注目度が上がったと思うのですが、どんな影響を受けましたか。 「とにかく天皇杯に出場することの影響の大きさを知りました。それが間違いなく2009年の天皇杯出場と初のJ1撃破につながったと思っていて、その面では大きな意味のある試合でした」 ――IAIスタジアム日本平はいかがでしたか。 「スタンドがせり立つ感覚があって声が響いてこだまするので、今まで経験した中で最高の環境でした。清水サポーターがサンバのようなリズムで移動(ロコ)するんですよね。それが地響きのようにピッチに伝わってきて、本当に一生に一度の経験だなと思います」 ――2年が経過して再び迎えた天皇杯の舞台では、心境の変化はありましたか。 「それはやはりありましたね。モンテディオ山形戦に関しては、2007年の清水戦の経験から『J1相手に惜しかった』ではもう一つ次のステージに行けないということを感じていたので『絶対に勝つぞ』という思いが強かったですね。2007年ももちろん強かったです。しかし僕の中ではどこか勝つというのが具体的にイメージできなかったのですが、2009年の山形戦は勝ちをイメージしながら試合に臨めて、試合が始まってからは思った以上に自分たちのプレーができました。『大学サッカーでのプレーをプロ相手でもできるぞ』という感覚に変わりました」 ――当時のチームの雰囲気はいかがでしたか。 「状態は良かったと思います。リーグ戦がうまくいっていない状態だったので『自分たちは天皇杯で勝つしかない』という思いを持って戦っていました。みんなのベクトルが天皇杯に向かっている中で日々練習していましたね。『2年前に経験したあの舞台にもう一度行こう、あの雰囲気をもう一度味わおう』という思いがチームの中にありました」 ――『SURUGA I DREAM Award』を受賞されるなど活躍されましたが、ご自身のプレーはいかがでしたか。 「あのゴールは練習でも経験したことがないゴールで、当時チームメイトがみんなびっくりするようなゴールでした。回転してトーキックで決めたのですが『もう一回やれ』と言われてもできないようなゴールです。あの瞬間、何ができるのかを考えてたどり着いた答えがああいう形で、結果的にうまくいきました」 ――山本さんの代のチームにはどんな印象がありますか。 「僕たちの代は最高でした。僕たちほど仲の良い代はなかったし、周りから『何でそんなに仲良いの』と言われるくらい仲が良かったです。普段からの仲の良さというのは少なからず、チーム作りをする上で欠かせなかったと思います。喧嘩もたくさんしましたし、喧嘩しても良いと思いながらやっていました」 ――明大サッカー部での4年間で成長したと感じる部分はありますか。 「コミュニケーション能力は成長できたと思います。70人一人一人とそれぞれ違ったコミュニケーションを取らなければならなりませんでした。薄い関係だとチームや組織は絶対に一つになれません。自分の思いと相手の思いは違って当たり前ですが、違うからといって突き詰めずに表面上うまくこなしているだけのチームは絶対に勝てないです。違う意見を持ちながらもお互いぶつかり合って心から理解して、何を生み出すかを考える作業です。それが組織を作る上ですごく大切なことだと4年間で学びましたね。それは社会人になって、番組を作る上でも役立っています」 ――大学サッカーについてはどう思われますか。 「どんどんレベルが上がっていると思います。明大の後輩たちを見ていても僕たちの時代以上に意識高くサッカーに取り組んでいるのを感じるので、素晴らしい舞台になっていると思います。大学に行ってからプロに行くのは遅いと言われていますが、やはり日本には日本がつくり上げたサッカー文化があるので、大切にしていく必要があると思います。そんな中でも今大学でサッカーをしている選手には選択肢を広げてもらいたいです。サッカー以外にもう一つ同じくらいの熱量を持ってできることがあればさらに発展して進化していくと思います。それは自分が全くできなかったことでもあるので、今の子たちには実現させてもらいたいですね」 ――最後に後輩たちにメッセージをお願いします。 「とにかく今取り組んでいることを信じて、一心不乱にサッカーをしてほしいなと思います。あとは選択肢を広げて、もう一つ何か新たな挑戦をすることも視野に入れてほしいです。やっていることは絶対に、全て未来につながることなので、サッカーだけにならず、今できることを一心不乱にやってほしいなと思います」 ――ありがとうございました。 [萩原亜依、土屋秋喜]READ MORE -
(番外)小川佳純氏 インタビュー 後編
サッカー 2021.09.26日本サッカー界をけん引する人材を数多く輩出してきた明大サッカー部。今回は明大を卒業後、プロ選手としてJリーグの3チームを渡り歩き、現在はJFLのFCティアモ枚方で監督を務める小川佳純氏(平19商卒)に三つのテーマに分けてお話を伺った。ここでは、今後の日本サッカーについて語っていただいたものをお届けする。(この取材は8月18日にオンラインで行われたものです。) ――自身のオンラインサロンを開設するなど、監督業を行いながらもサッカー界に携わっていらっしゃいますが、日本サッカーに対する思いを教えてください。 「日本サッカー界には、プロ生活で素晴らしい時間を過ごさせていただいたので感謝しかないです。自分は微力ですが、どういう形であれ日本のサッカー界の発展に貢献したいということを引退してからの目標の一つとして常に持ち続けています。このように、自分が現役を終えてすぐティアモ枚方の監督に就任して、JFLに昇格させてさらにいい結果を残すという一つのモデルケースになることができれば、現役選手にとってもプラスになるのではないかと考えています。そういった部分も含めて、現役選手への貢献もそうですし、自分が指導者として成功して、サッカー界を盛り上げて、いい選手を育てたり、いいチームを作ったりすることで、日本のサッカーがレベルアップしてほしいという思いで今の活動を続けています」 ――今回の五輪も、メダルには届きませんでした。また、国際大会で優勝するためはどのような部分が足りないと思いますか。 「吉田麻也(サンプドリア)や南野拓実(リバプール)のように、欧州のトップリーグに在籍する選手が増えていくことです。そして、一番大事なのは指導者だと思っていて、例えば日本国内で結果を出した指導者が、欧州のビッククラブから監督のオファーがあるかとか、そういったところで指揮を執っている日本人は現状ではまだいないので、今度は日本の指導者で欧州のクラブで指揮を執る人間が出てくるということが、日本のレベルを上げていくことにつながると思います。少しずつ欧州で活躍する選手が出てきたので、そうした中で指導者がどんどん成長していかなければいけないと思います。この前の五輪であと一歩メダルに届かなかった原因はそういう部分にあるのではないかなと思っているので、一人の指導者としてより勉強していかなければいけないなと東京五輪を見て感じました」 ――日本の指導者が海外で指揮を執るにはどのようなことが必要だと思いますか。 「やはりJリーグのレベルが上がっていけば、そこで指揮を執っていた監督は、自然と評価は上がると思います。しかし、欧州と比べるとリーグの実力自体の差があると思うので、結果を出したとしても、欧州から見ると一つ下のカテゴリーのチームで優勝させたという実績しか残せないと思います。最近はイニエスタ(ヴィッセル神戸)など、海外の選手が増えてきた中で、リーグのレベルが少しずつ海外に近づいていけば、そこで結果を出した監督も同様に評価も上がっていくと考えています。そして、欧州で監督になるためのライセンスと日本のトップのライセンスはレベルが一緒ではないので、その部分も変えていかないといけないなと思います。日本で結果を出した監督が、翌年にヨーロッパで監督になれるかというと、ライセンスが釣り合っていない時点で不可能なので、そこは変えていくべき問題だと思います」 ――日本特有の大学サッカーが、今後どのように日本サッカー界に影響を与えると思いますか。 「僕個人の意見で言うと、高校卒業するときにプロになれるのであれば、プロに進んだ方が良いと思っています。僕は35歳まで現役を続けましたが、それでも13年しかできなくて、高校卒業からプロになって35歳までできたとしたら、17年間プレーできたわけで、その4年の違いというのは、お金を稼ぐという意味でも海外に挑戦するチャンスがあるかないかという部分でも大きく違うので早くプロになれるのであればなった方がいいというのが僕の考えです。そんな中でも大卒選手が即戦力としてJリーグに入団することが多いということも事実なので、大学サッカーが日本サッカー界に貢献しているということも間違いないですね。 例えば、大学サッカーはJFLといい勝負ができると思うので、J3の下に大学やJFLのチームが戦うようなカテゴリーがあっても面白いのではないかなと思います。大学サッカーの格付けがもう少し上がってもいいのではないかと思うので、そういうことをたまに考えます。あまり現実的ではないかもしれないですが、大学サッカーで明大などは、毎年優勝争いをして、あれだけ多くの選手をプロに輩出しているので、大学界にとどまらず、違うカテゴリーで優勝を目指して戦うということも、あっても面白いかなと個人的には思います」 ――FCティアモ枚方での目標を教えてください。 「まずはJFLで優勝することです。そして、このクラブはJリーグ参入を目指していますが、まだ基準を満たしてないので、スタジアムなどの環境を整えなければいけないです。それはクラブの人間だけでは達成できないので、チームを取り巻く環境がチームのJリーグ参入に向けての速度を加速させるということを、結果を出すことで促していきたいと思っています」 ――明大の学生に向けてメッセージをお願いします。 「大学というのは、子供から大人に変わる非常に重要な時期だと思います。なので、周りの人からさまざまなことを学んで、1人の人間として、1人の大人になる上で、大事な時期なので、大学4年間を大事に過ごしてもらいたいなと思います。卒業後はそれぞれ新たな世界にチャレンジすると思いますが、自分が一番やりたいことを考えて、それに向かって努力して、チャレンジする。僕は引退後、どんな結果になるかわからなかったですが、自分がJリーグの監督になってタイトルを取るという目標を立てて、そこに向かって新たなことにチャレンジして、失敗もありましたが、成功体験も得られました。そうやってチャレンジすることで得るものというのは非常にたくさんあると思うので、チャレンジすることを恐れずに、まずは学生時代をいい大人になれるように、1人の社会人として自立できるようにという事を考えて過ごす。その後、自分のやりたいことに向けてしっかりチャレンジしてもらいたいなと思います」 ――ありがとうございました。小川佳純氏インタビューの前編はこちら小川佳純氏インタビューの中編はこちらFCティアモ枚方の選手へのインタビューはこちらREAD MORE -
(番外)小川佳純氏 インタビュー 中編
サッカー 2021.09.26日本サッカー界をけん引する人材を数多く輩出してきた明大サッカー部。今回は明大を卒業後、プロ選手としてJリーグの3チームを渡り歩き、現在はJFLのFCティアモ枚方で監督を務める小川佳純氏(平19商卒)に三つのテーマに分けてお話を伺った。ここでは明大在学時について語っていただいたものをお届けする。(この取材は8月18日にオンラインで行われたものです。) ――当時は2部リーグだった明大に進学した経緯は何ですか。 「まず一番の理由としては、家が八幡山に近かったということです(笑)。高校3年次の5月くらいに高校の監督と面談して、進路について大学進学かプロに行きたいかという話をする機会がありました。そこで大学進学だったらどこに行きたいかを伝えなければいけなくて。僕は市立船橋まで東京の実家から通っていたので、都内の大学に進学したいと思っていて、いくつか候補として挙げていた中に明大がありました。もちろんプロになりたいという目標があり、そのためには1、2年の早い時期から試合に出ないと、プロにはなれないと思っていたので、当時の1部の強豪チームに行くと、早い時期から試合に出られないのではないかという懸念がありました。その中で明大は2部でしたが、毎年プロになる選手がいるという情報があったので、早い時期から試合に出ることができればプロになれるチャンスがあるのではないかと思い志望しました。また、1部に昇格するという目標を持っていたチームなので、自分の活躍で上に引き上げることができれば目立った活躍にもつながりますし、プロという道につながるのではないかということを考えて、明大に進みたいという気持ちを固め、セレクションを受けて、合格し入ることになりました」 ――明大での4年間を振り返って成長した部分は何でしたか。 「明大サッカー部は、全員をプロのサッカー選手にするために存在しているわけではないので、僕らの学年は3人プロになったのですが、それ以外の14、5人は一般企業に就職することになりました。その場合、卒業する22歳の時には、大人として振舞えなければいけないし、社会に入っていくことになるので、どういった人間になるのか、一人の社会人として必要とされる人間になるために4年間のサッカー部の生活があるというようなことを、神川さん(明彦・明大サッカー部前監督)を含め、常に言われていました。社会に出たときに困らないような人間関係の構築や、人間としての成長を促してくれるような組織だったので、その時のトレーナーやコーチ、監督、すべての方たちが、常にサッカーだけではなく、1人の人間として成長できるというのを考えて接してくれていたので、そういうところの成長は非常に大きかったなと思います」 ――プレー面では3原則(運動量・球際・切り替え)、社会人としては人間性など明大で学んだことはプロ生活でどのように生きましたか。 「僕は大学を卒業してから引退するまで13年間プロをやっていましたが、やはり引退してからの人生の方が長いんですよ。例えば今、60~65歳まで働くのだとしたら、ここからまだ30年近く残りの人生があるわけで。サッカー選手としての時間というのは本当に一瞬しか無いので、そういう意味では、サッカーしかやってこなかったサッカーだけ上手い選手は、引退後やサッカーというものを取ったときに、何も残らないような人間になってしまいます。明大サッカー部を出た人間というのは、プロの道に進まずに、普通に企業で働いている人も優秀な人材は多いと思いますし、引退した後もサッカーに携わったり、サッカー以外の仕事をやっていたとしても、そのおのおのの場所で、人から求められたりする人間が多いと思いますね。僕もサッカーが終わった後、こうやってFCティアモ枚方の監督としてチャレンジさせてもらえたのは、明大でさまざまなことを学ばせていただき、そういうものの積み重ねがあったからだと思っているので、4年間で学んだことは今につながっていると思います」 ――現明大サッカー部監督の栗田大輔さんと面識はありますか。 「ありますね。僕が現役プロ選手だった時に実家が近かったこともあり、八幡山のグラウンドを自主トレで使わせていただいたり、毎年オフに相談させていただいたりしていました。アルビレックス新潟を退団した後に、現役の道も探しつつも引退することを決め、セカンドキャリアをどうするかとなったときに、初めて実際に会って相談させてもらったりもしました」 ――栗田監督の印象についていかがですか。 「仕事をしながら明大の監督をやるということは、本当にサッカー部を愛していないとできないことだと思うので、非常に明大サッカー部愛がある方だなという印象があります」 ――明大サッカー部の在校生や卒業生の中で注目している選手はいますか。 「毎年明大から、さまざまなチームに加入しているというのは情報として得ています。昨年度は12人くらい、普通11人以上一つのチームからJリーガーになるのは考えられないと思っていたので、そういった意味では全員注目しています。その中でも、僕の2歳下で、昨年度引退した林陵平(平21商卒)が今指導者として、東大のサッカー部の監督になっていて、現役の選手ではないですけれども、僕が引退してすぐにティアモの監督になったように、林も東大のサッカー部の監督に、引退後1年目で就任しているというのが自分としてはすごく嬉しいです。林の監督業に関してはすごく注目しています」小川佳純氏インタビューの前編はこちら小川佳純氏インタビューの後編はこちらFCティアモ枚方の選手へのインタビューはこちらREAD MORE -
(番外)小川佳純氏 インタビュー 前編
サッカー 2021.09.26日本サッカー界をけん引する人材を数多く輩出してきた明大サッカー部。今回は明大を卒業後、プロ選手としてJリーグの3チームを渡り歩き、現在はJFLのFCティアモ枚方で監督を務める小川佳純氏(平19商卒)に三つのテーマに分けてお話を伺った。ここでは小川氏が指導するFCティアモ枚方について語っていただいたものをお届けする。(この取材は8月18日にオンラインで行われたものです。) ――アルビレックス新潟を退団した直後、FCティアモ枚方の監督に就任した経緯についてお聞かせください。 「アルビレックス新潟を契約満了で退団することになり、他のJリーグのクラブで現役を続ける道を探していたのですがオファーがなかなか来ませんでした。そんな中、名古屋グランパス時代の同期である巻佑樹が、FCティアモ枚方のゼネラルマネージャーに就任することが決まり、巻から最初は選手として加入してほしいという話をいただきました。自分としては新潟での最後の2シーズンはケガが多く、環境がJリーグのクラブと比べて整っていない関西1部のチームで選手として自分が活動していくのは身体的に厳しいのではないかと思い、オファーを受けるかどうか答えを出せずにいました。そんな時、監督がまだ決まっていなかったらしく『監督をやってみないか』という連絡が巻から来ました。僕はぜひ監督をやらせていただきたいと答え、監督をやることが決まりました」 ――FCティアモ枚方での監督業はいかがですか。 「指導者の仕事をしたことは無かったので、最初は練習の組み立てが難しかったです。選手の時は与えられた練習をこなすだけだったので、細かいことは考えていませんでした。しかし、指導者になって練習メニューを組む上では、コートのサイズや、練習時間なども含めて組んでいかなければならないので、最初は手探りで進めており、難しかったです。しかし、それ以上にやりがいや、楽しめているなという感覚は自分で感じながらやれています。選手を引退した直後に監督に転身、というチャレンジをする人はなかなかいないと思うので、その意味でも非常に楽しめています」 ――プロとアマチュアリーグの違いに関してはいかがですか。 「FCティアモ枚方はプロのチームではないので選手はみんな仕事をしながらサッカーをしています。そのようなクラブでは、試合の設営や運営などの準備を選手、監督、スタッフ全員で協力して行い、ホームゲームが終わると、試合に出ていた選手も一緒に片付けをしなければなりません。人手が少ない中自分たちで全て作り上げているか否かがアマチュアとプロの違いです」 ――さらなる上位進出、Jリーグへの参入に向けてはどのような部分が課題だと思いますか。「Jリーグ参入という点に関しては、規定の収容人数を上回るスタジアムを造ることなど、すぐに解決することができない問題も絡んでくるので現時点では難しいです。ただ、たとえ昇格できなくてもチームとしていい結果を残すことができれば、ティアモを取り巻く人々が、『ティアモがそれだけ強いならスタジアムを作ってJリーグに昇格できるように準備しよう』というような動きを起こしてくれるのではないかと思います。そのためにも昇格して1年でJFL優勝、もしくはJ3の昇格圏である4位以内などの結果を出さなければならないと思っています」 ――名古屋グランパス時代のストイコビッチ監督からはどのような影響を受けましたか。 「ストイコビッチ監督(セルビア代表監督)も、監督業を始めたのはグランパスが最初でした。グランパスの監督に就任したときに、それまで万年中位と言われていた名古屋グランパスの中で『必ずタイトルを取るチームにする』と目標を言葉にしてメディアに発信していて、選手もその気になっていました。個人的にプレーについて何か言われるということはほとんど無かったのですが、勝者のメンタリティーや、最後まで諦めずに戦うということを常に言い続けてくださいました。その熱意が選手に植え付けられて、監督就任から3年後にチームが優勝するのですが、選手をその気にさせるマネジメント能力に関して非常に長けている監督だなと思いました。目標を明確に設定し、監督がそこを目指してぶれることなく向き合い続ければ、選手は付いてくるということを実際に見させていただいたので、監督となった今とても参考になっています」 ――さまざまな指導者の下でプレーされてきましたが、監督業を行う上でご自身が最も影響を受けている監督はいらっしゃいますか。 「一番と言われると選びづらいのですが、さまざまな監督のいい部分を吸収して、自分のものにしようと、今まで出会った監督の指導や振る舞いを思い出しながら取り組んでいます。練習メニューなども、高校、大学、プロと自分がやってきた中で『あのときのあの練習良かったな』と思ったものを選手に練習メニューとして与えたりしているので、今までご指導いただいた全監督のいいところを自分の中に取り込んで、それを発信しているという感じです」 ――JFLとFCティアモ枚方の魅力には何だと思いますか。 「僕たちや選手は、午後は仕事をしているのですが、その仕事先も実際にチームのスポンサーになってくださっている会社に勤めている人が多いです。自分たちが働いている会社の名前が胸とかに書かれたユニホームを着てプレーしているのでスポンサーの方々もチームに対する思い入れが強いです。スポンサーから見ても実際に自分たちの会社で働いている従業員がプレーしていますし、選手も自分たちが働いている会社名を背負ってプレーしているという意味では、チームをサポート、応援してくださっている皆さんと選手たちとの距離が近いということが良いところです。規模はJリーグと比べたら小さいのですが、人と人とのつながりがJリーグ以上に強いチームではあると思うので、そこが魅力かなと思います」小川佳純氏インタビューの中編はこちら小川佳純氏インタビューの後編はこちらFCティアモ枚方の選手へのインタビューはこちらREAD MORE -
(番外)FCティアモ枚方 関東大学リーグ出身者インタビュー
サッカー 2021.09.26明大時代には10番を背負い、13年間のプロ生活を経験した小川佳純氏(平19商卒)が率いるF Cティアモ枚方。今回は関東大学リーグ出身で、現在は小川氏の指導を受ける元中大の宮城和也、元駒大の森本ヒマン、薬真寺孝弥ら3選手にさまざまなお話を伺った。(この取材は8月にオンラインで行われたものです) ――関東大学リーグ時代を振り返っていかがでしたか。また、その中で明大はどのような存在でしたか。宮城:関東大学リーグは全国的にも一番レベルの高いリーグだと認識していて、1部と2部の差も比較的少なくて、どこの大学がその年に優勝するかわからない、変化の大きなリーグでした。その中でも明大は唯一、2年、3年と長期間勝ち続けるというところを唯一表現できていたチームだと思っていて、そういった点では唯一飛び抜けた強さを持っている大学だと思います。 森本:関東大学リーグは他のリーグと比べてレベルが高く、全チームレベルが高く、どこと対戦しても気の抜けないチームばかりでした。その中で明大は基礎だったり、全てにおいてレベルが高くて、安定していて負けないチームだなと思っていました。 薬真寺:高いレベルの選手と4年間戦うことができたので、自分の成長につながったと思いまし。明大には知り合いが多くいて、上手い選手が多かったので、試合するのは楽しかったですけど嫌でしたね。 ――明大の中で特に印象に残っている選手はいますか。宮城:安部柊斗(令2政経卒・現FC東京)です。自分は中盤の選手なので、大学時代はマッチアップすることがあったんですが、全てにおいてレベルが高いなと思いました。 森本:自分は小野寺健也(令1商卒・現栃木SC)です。駒大は前線にロングボールを出して、高さを生かすようなサッカーをしているんですが、そのボールを全部はね返すような強さのある選手でした。 薬真寺:自分はボランチだったので、瀬古樹(令2政経卒・現横浜FC)と安倍ですね。とてもプレーのレベル高くて、プレッシャーも早かったので印象に残っています。 ――小川監督はどのような監督だと思いますか。宮城:小川監督はまず賢いです。賢さを随所に感じられる監督で、全ての指導にちゃんと信念があって、ちゃんと小川監督の中で論理がしっかりあるのを指導を受けていて感じます。また、すごくクリエイティブな、想像力のある人なので、指導してもらって、監督の表現したいサッカーを自分たちが表現するというのが僕自身楽しいと感じています。賢くて信念のある監督かなと思います。 森本:自分は小川監督は宮城が言っていたように賢くて、監督なのに話しやすい、フレンドリーというか、監督って存在的に話しづらいじゃないですか。でも小川監督は選手ファーストですごく話しやすくて、自分的にはいい監督だなと思います。 薬真寺:選手のことをすごく考えてくれますし、監督自身もまだまだ動けるので、一緒にプレーしながら教えてくれたりとか、プロでの経験を伝えてくれたりして、練習は楽しいです。 READ MORE -
(36)関東大学1部リーグ戦 第14節対国士大戦 試合後コメント
サッカー 2021.09.23栗田大輔監督――試合を振り返っていかがですか。 「2点差のビハインドから、逆転できたので、大きな1勝だったと思います」 ――FW藤原悠汰(政経4=広島皆実)がハットトリックを達成しましたが、いかがですか。 「3点を取るということはサッカーではすごく大きな仕事だと思いますし、15節の筑波大戦も彼が点をとって同点で終えました。その調子の良さを買って今日は先発起用したのですが、そこで期待に応えてくれたので良かったと思います」 ――後半は4バックにシステムを変更しましたが、どのような狙いでしたか。 「もう1度明治の根幹となるサッカーをやってこいということで4-4-2のハイプレスを徹底して行うように指示しました」 ――暫定首位です。連戦が終わり次戦までは10日空きますが、準備はいかがですか。 「4年生にとってリーグ戦は残り6試合です。相手や順位がどうということではなく、4年生が後悔をしないように、持てる力を出し切って卒業することが大事で、そのためのサッカーをする準備をしていきます」 石井優輝主将(政経4=昌平)――試合を振り返っていかがですか。 「前半は不甲斐ないというか、明治としてありえないゲームをしてしまったのが反省すべき点でした。後半はシステムが変わって、栗田監督からげきを飛ばされて、いいサッカーができたと思いますけど、実際に試合に出るのは自分たちなので、監督に檄を飛ばされて修正しているようではまだまだです。そろそろ自分たちも自立して、正していくことができないと残りのリーグ戦を全勝することはできないので、修正します」 ――相手の10番、棚橋(国士大)が手強かったと思いますがいかがですか。 「技術があっていい選手だと思っています。棚橋選手を要注意人物として自由にプレーさせないということをチームで統一して試合に入ったのですが、自由にさせすぎたと思うので、抑えなければならない選手に厳しいアプローチをする姿勢が足りなかったです」 ――FW藤原悠汰(政経4=広島皆実)がハットトリックを達成しましたがいかがですか。 「同期として嬉しいです。自分たちが4 ――終了間際にはチーム全員で闘志を燃やして戦っていたと思いますが、いかがですか。 「全員が魂のこもったプレーをすれば明治が負けることはありません。後半終盤にかけてすごい団結したかなとは思いますが、それを前半から体現していかないといけないですね」 ――次戦に向けて意気込みをお願いします。 「3連覇のためには1試合も落とせない状況です。今日の反省点をまた洗い出して、監督ではなく自ら課題にアプローチして、より成長した姿で次戦を迎えられるように練習します」 FW藤原悠汰(政経4=広島皆実)――ハットトリックを達成されましたが、ご自身の1点目に関してはいかがですか。 「DF岡庭愁人(FC東京U―18)のクロスボールが良かったです。クロスから得点する形は最近よく練習しています。自分が岡庭を信じて走ることができたことが、良い時間帯での得点につながったのだと思います」 ――同点弾となった2点目は勢いづくきっかけになりましたか。 「2点目もFW佐藤恵(文2=実践学園)が突破してくれて、自分の所にボールが来ることを信じてPA(ペナルティエリア)内に入っていました。『ノンルックパスで欲しい』と頼んでいて、そこに自分が入れるか否かがカギでした。結果的に同点にして勢いづく形になったのかなと思います」 ――逆転弾となった3点目に関してはいかがですか。 「時間帯的にも相手にダメージの大きい時間でしたし、シュートコースが限られていた中で得点することができたので良かったです。FWとしての自分らしさが出たゴールがどれも勝敗を左右する形で決められたので、自分に自信持ちながらも、もっと得点数を増やしていこうと思います」 ――周囲を生かして、引っ張っていく意識は4年生になってから高くなりましたか。 「昨年は一つ上の代にFWが多く、頼れる部分も多かったのですが、今年度は最上級生として示せる者が自分しかいません。その中で口先だけではついてきてもらえないので、結果を出しながら言葉の重みを持たせられるようにしたいです。自分が卒業した来年時も『引っ張ってくれていたな』と後輩に思われるような存在になりたいし、なるべきなので意識しています」READ MORE