【硬式野球部】夏の甲子園100回記念特別企画
第100回の記念大会となる全国高校野球選手権。通称・夏の甲子園が8月5日に開幕した。高校球児にとって、甲子園は特別な場所。本企画では「あなたにとって、母校にとっての甲子園とは」をテーマに、計12名の選手に取材。対談・個人インタビュー各4本をお送りする。明大選手の思い出と共に100回目の夏を見届けよう。
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(6)〝島から甲子園〟 離島球児が見た大舞台 前山優樹インタビュー【後編】
硬式野球 2018.08.07夏の甲子園100回記念特別企画。第3弾は前山優樹投手(商3=鹿児島県立大島)のインタビューです。奄美大島の高校出身の前山選手は、高校2年次に離島のハンディキャップを克服し、21世紀枠で春のセンバツに出場されました。後編では前山選手が見た甲子園の回想、そしてその後の野球人生を語っていただきました。(この取材は7月29日に行ったものです)。 前編はこちら ――本格的に甲子園を意識し始めたのはいつ頃ですか。 「公式戦で毎回結果を出していて、その時はベスト4でした。厳しいかとは思ったんですけど、21世紀枠に選ばれました。それまで意識はしていなかったです。決まった時は信じられない部分も楽しみな部分もありましたが、全国とのレベルの差も感じていたので、頑張らないといけないと思いました。(甲子園に出た年が奄美大島の日本復帰60周年)それも選考に関係していたのではないかと思います」 ――初めての甲子園はいかがでしたか。 「人が多くてすごいなと思ったんですけど、投げていればあっという間に終わってしまいました。(龍谷大平安との対戦)レベルの差を感じました。(自軍の)応援席がすごくて、ベンチにいても感じる程でした。それが一番印象深いです」 ――1回戦で対戦した龍谷大平安高が優勝しました。 「決勝はみんなで応援していて、親近感が湧き、優勝したときはうれしかったです」 ――甲子園に出たことで変わった部分はありますか。 「メディアにも注目されて、(寄付金で)道具も良くなったし、環境が良くなりました」 ――センバツ後はどのように過ごしましたか。 「センバツの後は走塁が課題だったので、徹底しました。(春のエースが投げられなかったので)自分が投げていたんですけど、その分経験は深まりました」 ――高校3年間でのベストゲームを選んでください。 「招待試合で、強豪校を招待するんですけど、長崎の海星高とやった時に1対0で完封勝利した試合です」 ――卒業後は母校の練習を見に行きましたか。 「OB戦では後輩相手に投げました。強くはなっていますが、実力での甲子園に向けてはまだまだだと思いました」 ――進路として明大を選択した理由を教えてください。 「自分は進路が決まっていなくて、監督に経験のつもりで試験を受けろと言われたんですけど、結果を残せて入れました。もともと福岡の大学に行く予定でした」 ――明大に来て驚いたことはありますか。 「レベルの高さです。こんな所でやっていけるのかという不安を抱えました。(東京での生活)人の多さです。今は慣れましたけど、最初は新宿などの大きな駅で迷子にもなりましたし、大変でした。(笑)」 ――全国の離島から甲子園を目指す球児たちに前山さんからエールをお願いします。 「ハンデとかはあると思いますが、離島ならではの強みもあると思うので、地元から甲子園を目指すという選択肢もいいと思います。頑張ってください」 ――ありがとうございました。 [曽布川昌也] 前編はこちら ◆前山 優樹(まえやま・ゆうき) 商3、鹿児島県立大島、180センチ・82キロ、右投右打、投手 高校2年次に21世紀枠で第86回選抜高校選手権に出場。地元・奄美大島の好きなところはきれいな海があること。お勧めのお土産は鶏飯(けいはん)だそうだ。訪れた方はぜひ満喫していただきたい。 次回の夏の甲子園100回記念特別企画は、名門・横浜高で甲子園を経験した公家響内野手(政経2)です。お楽しみに。READ MORE -
(5)〝島から甲子園〟 離島球児が見た大舞台 前山優樹インタビュー【前編】
硬式野球 2018.08.07 夏の甲子園100回記念特別企画。第3弾は前山優樹投手(商3=鹿児島県立大島)のインタビューです。奄美大島の高校出身の前山選手は、高校2年次に離島のハンディキャップを克服し、21世紀枠で春のセンバツに出場されました。前編では前山選手の野球人生や、島での生活について語っていただきました。(この取材は7月29日に行ったものです)。 後編はこちら ――野球を始めたきっかけを教えてください。 「小学校4年生の時に第1回WBC(ワールドベースボールクラシック)影響を受けて野球をしたいなと。それまでは水泳をしていました」 ――島内で野球はどれくらい根付いていたのでしょうか。 「野球をやる人は結構いました。中学は県内でも強い方でしたが、中学の中でうまい選手が島内ではなく鹿児島本土とか、いろいろな所に取られてしまうので、島の高校は強くなかったです。でも自分の一つ上の代から高校でも島に残り始めて、そこから流れが変わってきたという感じです。(施設などは)大きい球場は一つしかないです。そこには社会人がキャンプに来ることもあります」 ――中学以降の野球歴を教えてください。 「中学は地元の学校に行って、野球は強かったです。中学出る時に島外からスカウトが来たんですが、地元の高校に進みました。(島を出なかった理由)親の意見が一番大きかったです。また、1個上の代の先輩が多く残っていたので、大島高校でも上を目指せるかなと思いました。(選手が島に残り始めた要因)高校の監督がスカウトをしっかりし始めたことですかね」 ――高校時代はどんな野球環境でしたか。 「(島外への遠征)ゴールデンウィークは沖縄に行って練習試合をしていました。(遠征費などは)県大会が本土であるので、ホテルに泊まるんですけど、勝ったら10泊以上もして、宿泊費が10万とかかかっていました。甲子園に出てからは寄付金がもらえて、自分たちでお金は出さなくてもよくなりました」 ――高校野球を始めたときの印象はどうでしたか。 「最初は軟球から硬球に変わって、楽しんで野球ができました。大島高校が文武両道の学校でもあったので、勉強が大変でした」 ――普段の生活は。「7時15分くらいに学校に着いて、朝課外、1限から6限まで行って5時から1時間半くらいまで練習してました。土日は練習を長くやっていました。(グラウンド)山の上にあるんですけど、ソフトボール、ラグビー、サッカーなどと共同で使っていました。野球部が使える場所は広くなかったです。(甲子園には)まさか行けるとは思っていなかったです。(意識する相手はいたか)私立です。相手にするとみんな目の色を変えていました」 ――島だからこそのメリット、デメリットはどんなところでしょうか。 「メリットはとにかく暑いので、本土で寒い時期でもボールを触れていたということです。デメリットは練習試合が少ないことと、遠征で慣れない環境なので疲れてしまう点ですね」 ――独自の名物練習はありましたか。 「学校のグラウンドの前の坂道を駆け上る〝大高坂ダッシュ〟というのがありました。それで脚力を養っていました」 ――島ならではのエピソードはありますか。 「練習場にヘビが出たり、イノシシが出たりしました。(退治の方法)ハブは専用の棒があるんですけど、それで取って箱に入れていました。危ないですよ(笑)。かまれたら死んでしまうので。イノシシは無理です。放っておくしかないです」 ――貴重なお話ありがとうございます。後編も引き続きお願いします。 [曽布川昌也] 後編はこちらREAD MORE -
(4)1大会最多8盗塁 丸山和郁インタビュー【後編】
硬式野球 2018.08.06夏の甲子園100回記念特別企画。第2弾は、丸山和郁外野手(商1=前橋育英)のインタビューをお送りします。丸山選手は昨年度、3試合で8個の盗塁を決め、1大会最多盗塁のタイ記録を達成されました。後編では、母校の思い出や後輩への思いについて語っていただきました。(この取材は7月29日に行ったものです)。前編はこちら――丸山選手にとっての甲子園はどのような場所でしたか。 「3回行けたので、特別な場所という感じはないです。初めて行った時はここか、と思ったんですけど2回目からはみんなと一緒に『ただいま』とか言ってたので(笑)。むしろ甲子園が懸かってる県予選戦う方が特別でした。県内で勝ち上がってうれしい、という感じでした」――甲子園を楽しむことはできましたか。 「楽しめました。大観衆の『わーっ』ていう声も聞けて、熱盛も貰えたので。ベンチとかで打ったら明日1面だ、みたいな話はしてました」――前橋育英高独自の風習、練習などはありましたか。 「特色なのかは分からないですけど、毎日練習の締めで6秒スイングというのをやっていて。6秒に1回、10回ずつピッチャーはシャドーピッチングをやって、タイミングに合わせて自分がボールの軌道と球種をイメージして9分割に加えて自分の好きなコースを振るというものです。それは全部自分のイメージでやるので、バッティングが良くなった時はそのスイングをしっかりするように意識してました」――荒井監督は厳しかったですか。 「私生活とか誰もができることをちゃんとやらなかったりすると怒りますけど、それ以外は結果を残せないから怒ることはなくて、結果を残すために何もやらないから怒る、そんな感じでした。(監督さんの指示)監督さんはあまりサインを出さなくて盗塁とかは自分で考えながらやってたので、圧力がかからないから伸び伸びやれていました」――今年も前橋育英高は甲子園出場を決めましたが、後輩に向けてエールは送られましたか。 「甲子園が決まった時にキャッチャーの小池(悠平)に『お前らが一番輝けよ』というのは伝えました。1個下は谷間の世代とOBとかからも言われてて。自分たちがいて、2個下も選手集まったと言われてて押しつぶされてる感じで、苦しかったらしくて。プレッシャーもあって、その中であの強力な健大高崎高打線を抑えて勝ったので本当に尊敬します。一番いい成績残してほしいし、楽しんでほしいし輝いてほしいと思います」――大学ではケガで出遅れてしまいましたが、後輩の活躍や高校時代の思い出が活力になるのではないでしょうか。 「本当にそうです。後輩の試合の次の日とかは自分も頑張らないといけないでしょ、と言い聞かせたりとか。昨日もそういう気持ちになりたかったので、去年の夏の初戦見たりして思い出に浸りながら頑張ろうと思ってました。もしかしたら大学4年間のカギになるのは高校時代の映像かもしれないです」――ありがとうございました。[三ツ橋和希]前編はこちら ◆丸山 和郁(まるやま・かずや) 商1、前橋育英、172センチ・72キロ 、左投左打、外野手 春夏通算3度甲子園に出場し、最高成績は高校3年次夏の3回戦進出。色紙を書く際は「前橋育英」という字に手こずり、何度も練習してから本番に移った。〝凡事徹底〟は荒井監督の座右の銘。 丸山選手の母校・前橋育英高は8月7日(火)に近大付高との初戦を迎えます。熱戦にご注目ください。 次回の夏の甲子園100回記念特別企画は、離島の高校ながら21世紀枠でセンバツ出場を果たした前山優樹投手(商3=大島)です。お楽しみに。READ MORE -
(3)1大会最多8盗塁 丸山和郁インタビュー【前編】
硬式野球 2018.08.06夏の甲子園100回記念特別企画。第2弾は、丸山和郁外野手(商1=前橋育英)のインタビューをお送りします。丸山選手は昨年度、3試合で8個の盗塁を決め、1大会最多盗塁のタイ記録を達成されました。前編では、当時の思い出について語っていただきました。(この取材は7月29日に行ったものです)。後編はこちら――初めて甲子園に出場した高校2年次の気持ちをお聞かせ下さい。 「まずはあの球場でできることがうれしいという気持ちがありました。あの試合(2回戦・嘉手納高戦)は負けてる試合で、逆に思い切り投げようという気持ちがあったので緊張せず投げられました。(翌年のため)監督さんからは何も聞いてないんですけど、多分そうだと思います。夏の大会は投げる予定は全くなかったので」――続いて高校3年次のお話をお伺いします。連覇の懸かった3年夏、特に健大高崎高戦は緊張しませんでしたか。 「自分はどの試合も毎回心配していて、朝ご飯を食べる時はえづいて食べてたりしたので。試合始まる前は一番緊張してたと思います。(決まった時は)県大会がやっと終わった、という感じでした。健大高崎高とやるときは総力戦で毎回苦しい試合だったので」――そして出場した甲子園では8盗塁を成し遂げましたが、最初から狙っていこうと思っていましたか。 「盗塁のきっかけが山梨学院高戦(初戦)で、ロースコアになるから足を使って攻撃していこうとミーティングで話してて、そこからやっていきました。自分は記録あまり分かってなくて1試合の記録を聞いただけで、大会通しての最多盗塁は聞いてなかったので意識はしてなかったです」――そのことによって一気に注目が集まりました。 「よく記録に残してないけど記憶には残るよな、と言われて。2年の夏も県大会の準決勝で勝ち越しの2ランを打って、決勝も決勝点で、ラッキーボーイって言われてました。そこからろくに打ってもない、守備もしてないのに注目されて、何でなのかなって気持ちはありました(笑)」――2回戦の明徳義塾高戦で足がつっている状態でリリーフに入ったとお聞きしました。 「まさか2アウト2ボールでピッチャー代わるって誰も予想しないじゃないですか(笑)。タイムかかったときにもう1回マウンド集まるんだろうなと思ったら伝令が審判のとこ行ってるので『ええーっ!?』と思って、アナウンス聞いたら交代で、慌てて肩つくって。喬涼(皆川・中大)に頼んだと言われたらもうやるしかないじゃないですか。そこは死ぬ気でやりました」――続く3回戦、花咲徳栄高戦は先発で5失点と打ち込まれてしまいました。 「初回で伝令が来た場面があったんですけど、ピッチャー代わってくれって言いそうになったぐらいきつかったですね。自分じゃ絶対抑えられないと思ったのはあれが初めてでした。心は折れてました。(切り替えは)自分のせいでチームが負けてるのに、あまりできないですよね。塁に出なきゃ出なきゃと思ってました」――最終打席に入った時のお気持ちをお聞かせください。 「次も打席が回ってくると信じて入ったのでそんなに特別なものはなかったですけど、アウトになって応援してたらアルプスから応援の音が聞こえて。応援席が全然諦めないでいつも以上に声出して応援してくれたことがうれしくて、それで涙が出ました。普段は勝っても泣かなかったし一昨年の夏もちょっと泣いたぐらいで全然泣かないので、まさか泣くとは思わなかったです。本当に幸せものだったと思います」――敗戦が決まった時は。 「もっとこの仲間と野球やれると思ってたので、まずは信じられなかったです。徳栄に勝てば国体もあって。みんな最初は国体まで面倒くさいって言ってたんですけど、負けるとなるともっとみんなとやりたかったって気持ちは強くて、みんなもそう言ってて野球好きなんだなと思いました。3年間一緒に野球をやってきた仲間なので、特別なものはありますね。本当に寂しい気持ちでした」――貴重なお話ありがとうございます。後編も引き続きお願いします。[三ツ橋和希]後編はこちらREAD MORE -
(2)作新学院高OB対談 添田真海✕入江大生【後編】
硬式野球 2018.08.05夏の甲子園100回記念特別企画。第1弾は、添田真海内野手(法3=作新学院)と入江大生投手(政経2=作新学院)の〝作新対談〟をお送りします。見事、8年連続の甲子園出場を決めた母校への思いと、当時の思い出を語っていただきました(この取材は7月29日に行ったものです)。前編はこちら――野球以外でのお二人の思い出は。入:冬は練習が終わるとすぐに寮に帰って、シャワーを浴びた後に一緒にベッドに潜って「どこまで進んだ?」とか言いながら2人で『ポケモン』をやったり(笑)。でも自分はすぐに寝てしまって、その間に添田さんはバッチを3個くらいゲットしていました(笑)。あとは、添田さんは目覚ましのアラーム音に曲を設定していて、当時はすごく耳に残っていましたね。添:こいつはアラームをかけないんです。入:添田さんのアラームで起きていました(笑)。それで起きなくても、起こしてくれましたね(笑)。起きないといけないのが嫌で、目覚ましの曲は知らないやつでも覚えてしまいました。――添田選手は、入江選手との印象的な思い出はありますか。 添:特にないかな。何かある?入:自分が高校に入寮した時、添田さんが寮を案内してくれたんですよ。その時の背中が広いなと。偉大な先輩だなと(笑)。添:ははは(笑)。僕からは何もないです。入江はいて当たり前なので。――お二人が見るお互いの性格は。入:添田さんは一見クールですけど、心を許した人には結構おしゃべりです(笑)。添:人前では「添田さん」とか言いますけど、裏では違いますよ(笑)。全部が適当です。だって、自分が朝起こすんですよ。入:寝坊したら五厘なんですけど、添田さんがいなくなってからずっと五厘でした(笑)。添:小針監督のところに戻してやらないと駄目ですね(笑)。――〝作新ならでは〟の練習の思い出を教えてください。入:練習している途中で監督が来るんですけど、雨の中で練習していても監督が入ると雨がやみましたね。それを『(小針監督とバリアをかけて)コバリア』と呼んでいました(笑)。添:本当に監督がドアを開けると雨がやむんですよね。多分普通の高校だと雨が降ると「中だから楽だ!」って喜ぶと思うんですけど、作新の場合は雨の日の方が厳しくて。体育館の4階は3階が見える造りで、周りに走るスペースがあるんですけど、そこでタイムトライアルが始まって。それを『走4(そうよん)』と呼んでいました。入:自分は1回もやったことがないですね。でも、雨が降って「走4やるらしいよ」という話が出るとおびえていました。添:昔はやっていました。自分はちょうど梅雨の時期の6月生まれなんですけど、誕生日は2年連続で『走4』をしていて。思い出したくないです(笑)。――高校時代には戻りたいですか。入:2兆円もらえるなら(笑)。学校生活は楽しかったですけどね。添:自分も戻りたいとは思わないです(笑)。でも、甲子園に出るのが当たり前という感じで見られている分、ものすごく頑張っていたなと思います。周りからのプレッシャーもありましたけど、良いプレッシャーでしたね。――改めて高校3年間はどのような日々でしたか。入:とにかく濃かったです。練習や学校生活、いろいろな意味で凝縮されて濃密でした。人生の最高期が固まった3年間だったなと思います。添:自分も入江も高校生という時期に小針監督に出会えて、そのおかげで一番成長できたと思います。――お二人にとっての甲子園とは。入:応援されているということが一番実感できる場所ですね。一挙手一投足に歓声が上がるので、フワフワしました。添:甲子園に出場するまでにやってきたことが、全て出る場所です。入江たちの学年が優勝できたのも、一番練習をやってきたのが作新だったからだと思います。――最後に甲子園での戦いを控える後輩の方々へエールをお願いします。入:後輩たちには後悔なく楽しんでもらいたいです。添:甲子園で一球投げる、一打席立つということは、すごく大切なことだと思います。せっかく甲子園に出られるので、その実感をかみし「めてやってほしいです。――お二人とも、ありがとうございました。[浜崎結衣]前編はこちら ◆添田 真海(そえだ・まなみ)〈写真左〉法3、作新学院、170センチ・72キロ、右投左打、内野手 高校1年次からレギュラー。春夏通算3度甲子園に出場し、最高成績は高校1年次夏、高校3年次夏の3回戦進出。色紙に書かれた〝女神〟は「よく甲子園には魔物がいると言われるが、女神しかいなかった」ため、添田にとって甲子園は女神のような存在だそうだ。好きな食べ物は焼き肉だが、ホルモンは苦手。 ◆入江 大生(いりえ・たいせい)〈写真右〉 政経2、作新学院、187センチ・78キロ 右投右打 投手 高校時代は春夏通算3度甲子園に出場し、高校3年次には甲子園優勝。また同年は打者に転向し、史上7人目となる3試合連続本塁打を放った。同期は今井達也選手(埼玉西武ライオンズ)。取材当日は寿司を食べる予定があり、知り合いの方にもらった〝NO SUSHI NO LIFE〟のTシャツを着て、夕飯を心待ちにしていた。 お二人の母校・作新学院高は8月6日(月)に大阪桐蔭高との初戦を迎えます。熱戦にご注目ください。 次回の夏の甲子園100回記念特別企画は、1大会最多盗塁の個人記録を持つ丸山和郁投手(商1=前橋育英)です。お楽しみに。READ MORE -
(1)作新学院高OB対談 添田真海✕入江大生【前編】
硬式野球 2018.08.05夏の甲子園100回記念特別企画。第1弾は、添田真海内野手(法3=作新学院)と入江大生投手(政経2=作新学院)の〝作新対談〟をお送りします。見事、8年連続の甲子園出場を決めた母校への思いと、在学当時の思い出を語っていただきました(この取材は7月29日に行ったものです)。後編はこちら――作新学院高が栃木県大会8連覇を達成した率直なお気持ちをお聞かせください。添田(以下、添):7年続いていたので、また8年と続いてホッとしています。入江(以下、入):8連覇ということで、よくやってくれました。――作新学院高への進学のきっかけは。添:すごく声を掛けてもらって。自分が入る前に甲子園でベスト4、8になっていたのもあって「ここで野球をしたい」と思い入りました。入:自分は憧れの添田先輩がいるということで決めました。小さい頃から添田さんのプレーを見ていて「この人が作新に行くなら自分も行きたいな」と思いました。――お二人は地元が一緒で、小学生からの知り合いと伺っています。中高大と同じ学校に通われていますが。添:自分は別に一緒にやりたいとは思っていませんでした。入:ツンデレなんですよ(笑)。添:自分は一つ上なので、どちらかといえばこっちがね。入:形としては、自分が付いていったみたいな感じですかね(笑)。添:高校でも寮生活をしていて、自分が高校2年次の冬から半年くらい一緒の部屋にもなりました。もう先輩後輩じゃないです。入:兄弟です(笑)。添:入江はだらしないので、練習後に寮へ帰って床で寝たりするんですよ。自分が起こして風呂に入らせて(笑)。朝も起こしていました。――作新学院高時代の練習を振り返っていただけますか。添:量はすごくやっていたと思います。部員全員が小針監督(作新学院高)のことを尊敬していて、だからこそ、つらい練習も付いていこうと思って頑張っていました。入:今振り返ってみると、よくあんなことができたなと思います。2兆円もらえたらもう一度高校時代に戻ってもいいですけど、それ以外だと戻りたくないです(笑)。それくらい大変でした。――監督はどのような存在でしたか。添:作新で練習をやっている時は厳しいですし、怒られましたけど、引退して話すようになるとすごく優しくて、現役の時に監督が自分たちのことを思ってくれていたのが分かります。練習しているところを見なくても、自分が何をしているか分かってくれていて、試合の時も一塁ベンチ、三塁ベンチなどいろいろなところをすごく観察しています。野球のことをものすごく勉強しているんだと、自分たちにも分かりました。――監督から言われて響いた言葉は。入:「習慣と環境を大事にしろ」ですね。耳にたこができるくらい言われました。添:自分は1年で入ってからすぐにレギュラーで使ってもらえたんですけど、2年になってうまくいかない時期があって。その時に「お前が1年の時に甲子園に連れて行っただろう」と監督に言われて。そこで初心に戻って、次は自分がチームを引っ張っていくんだという意識ができて、また成長できました。――県大会を連覇し続けています。甲子園に出て当然という空気で戦うのは、どのような心境でしたか。入:自分は「甲子園に行く」というよりも、先輩たちが築き上げてきた連覇を止めてはいけないという気持ちの方が強かったですね。――入江選手は最後の夏に甲子園優勝を果たしました。入:自分たちの代は〝史上最弱〟と言われていて、甲子園に行けるかどうかのレベルで、甲子園という場所も雲の上、夢のような存在でした。そんな中でメンバーに入れなかった人たちが、本当に全力でサポートしてくれて。それがうれしくて、「あいつらのためにも1勝でも多くしたい」と積み重ねた結果が、優勝につながったのかなと思います。添:1年生の時から入江たちの代は選手がそろっていましたが、結果が出ていなかっただけでした。それでも優勝するとまでは、正直思っていませんでした。――優勝して、添田選手からは何か言葉を掛けられましたか。添:していないですね。言わなくても感じるものですよ(笑)。入:そういうのではないですね。改めて言われると気持ち悪いです(笑)。――お二人の関係性が伺えますね。後編も引き続きお願いします。[浜崎結衣]後編はこちらREAD MORE