特集記事
SPECIAL

(34)OBインタビュー 3区・池辺稔氏

競走 2018.12.12

 

 歴史に名を刻んだ男の今を追った。今回で60度目の箱根に挑む明大は、これまで優勝7度を含め、箱根の歴史を彩ってきた。今特集では各区にちなんだOBを取り上げ、当時の思い出とともに、明大と箱根の歴史を振り返る。

 

 第3回は当時主将を務めた池辺稔氏(平19商卒)を特集します。(この取材は1125日に行われたものです)

 

◆池辺氏の箱根成績◆

学年

個人成績

チーム

1年

不出場

予選落ち

2年

4区10

18

3年

9区17

18

4年

3区15

16

 


――大学4年間を振り返っていかがでしたか。

「あまり成績も良くなく出るだけに終わってしまいましたね。自分が4年の時に初めて全日本駅伝に出ることができてそれが良かったのかなと思います。でも3大駅伝でみると出雲は出ることができず残念に思います」

 

――当時主将を務めていましたが意識したことは何でしょうか。

 「弱いチームではあったので、厳しさをもって日ごろやっていかないといけないと思っていました。ちょうど1年生が強い世代になっていて、そこが4年生になるときにはシード権もしくは優勝できるようにと思っていました」

 

――西弘美元駅伝監督はどのような存在でしたか。

「走れなくて怒ったという印象はありませんでした。卒業してからも明治の競走部は、日本トップレベルの選手や、世界に向けて戦えるような選手を輩出しています。大学時代の4年間だけではなくてその先を見据えて育成している方でした。箱根は通過点ではありませんが、そういったことは感じていたと思います」

 

――なぜ岡山の高校から関東の明大への進学を決めたのでしょうか。

  「自分は箱根駅伝を出られる大学に行きたくて、当初は違う大学を希望していました。しかし西さんの熱意と、松本(穣)先生が手紙を書いてくれてそれがいいなと思いました。熱烈なものでした。あと、これから箱根に出ていないチームを自分たちの力で有名校にしていきたいという思いが強かったですかね」

 

――当時のチームの雰囲気はどうだったのでしょうか。

  「自分たちが入ってすぐ主力という感じでした。ただ、一つ上に幸田さん(高明氏・平18政経卒)という核となる選手がいたので、幸田さんを目標にまずはみんなで何としてもやってやるんだという気持ちで、まとまってやっていたという印象がありました」

 

――当時の目標は何でしたか。

 「まずは箱根出場でしたね。出場できればシード権という感じです。自分たちの代では、まず箱根に出て、3年目にシードをとって4年目に上位争いできたらいいねと話はしていました。ただ、やはり自分たちが思っていることと現実は違ってうまくは進みませんでしたね」



主将を務めた池辺

 


――箱根駅伝を振り返ってどうですか。

  「自分が走った時は、2年生が一番成績がよくて、3、4年はダメだったと思います。ただその中でチームメートと力をもらって助け合いながらなんとか走れた感じなので、今回走る選手もチームメートを信じて頑張ってほしいです」

 

――卒業後は実業団への進んでいます。

  「高校から大学、実業団へ行くにはだんだん狭き門になっていきます。走れなければ社業に専念するしかないという感じになってしまうので、常に危機感を持ちながらやらないといけないというのは強く思っていましたね。不安というよりかはやらなければならないという感じでした」

 

――現在も走ったりはしていますか。

  「それがぱったりとやらなくなってしまって(笑)。ランニングとかもしませんね」

 

――今の明大を見てどう思われますか。

  「自分たちと比べてはいけないので(笑)。もっと高いレベルで日ごろのトレーニングとかもやっていて、自分たちから見るとエースばかりじゃんとなっています。自分たちは応援することしかできないですが、応援しています」

 

 ――箱根駅伝がくれたものは何でしょうか。

 「仲間ですかね。なんだかんだ言いながら仲間と襷をつないでいました」

 

――最後に現役学生へのエールをお願いします。 

 「仲間を信じて走って、悔いのないようにしてほしいです。今できることを一所懸命にやることが、今後の自分の人生の糧になれると思います。頑張ってください」

 

――ありがとうございました。

 

[曽我怜平]

 

次回のアップは1213日(木)です。お楽しみに!



関連記事 RELATED ENTRIES