OB國分“感謝の”引退ジャンプ/白馬記録会

スキー
1999.01.01
「No.62 國分哉伸 明治大学」
  小雨降りしきる白馬の空に、ラストコールが鳴り響く。國分はまるでこの1年の迷いを払しょくするかのように、全72選手中トップのスピード・時速92kmで大空へと羽ばたいた。「100m」。K点には届かなかったものの、「100点満点だってことだよ」(最上トレーナー)。結果以上に大きな喜びをかみ締めていた。

翼、失う

 波乱万丈の1年だった。昨年の秋、左ひざ前十字じん帯を断裂して手術を決意。大学卒業後、有力企業で競技を続けることが決まっていた國分は、2010年のバンクーバー五輪を目指していた。そのためには手術が必要、未来に懸け大きな決断を下した。冬、学生最後のシーズンに参戦できず歯がゆい思いをするも、リハビリに精を出す毎日。筋力は日々アップし、確かな手ごたえをつかんでいた。
 ところが、入社式を直前に控えた春。まさかの事態が國分を襲う。留年――。競技続行の道は白紙、すべてが崩れ落ち、自暴自棄になった。「ジャンプは自分をアピールできる唯一の場所」。そう自慢気に語っていた國分は、飛躍の場だけでなく自分自身さえも見失ってしまった。そして、「なんで俺だけこんな目に遭わなきゃいけないんだ」と吐き捨て、自らの殻に閉じこもった。

新たな翼

 それから1年がたった。時間と共に落ち着きを取り戻し、新たな就職先も決まった。だが、13年間続けてきたジャンプに対するわだかまりはなかなか消えなかった。「最後にもう一度飛びたい」。押し殺していた心の叫びに、ようやく耳を傾けた。
 「まだ間に合いますか?指導していただきたいのですが…」。高校時代からお世話になっていた横川朝治コーチに電話をしたのは、今大会の1週間前だった。そこから怒とうの練習が始まる。雨天で現役選手が休んでいる間も一人飛び続け、その数4日で70本。ジャンプを始めたころのように無我夢中で飛んでいた。
迎えた本番。当たり前だった景色や仲間が懐かしく、そしていとおしく思えた。「お疲れさま」。そう声を掛けてもらうたび、涙をこらえるのに必死になった。
 「仲間の大切さ、周りへの感謝の気持ち…忘れていたものをようやく思い出すことができた。なんでもっと早くここに戻ってこなかったんだろう。だけど、この挫折がなければそんなこと感じることもなくスキーを続けてしまっていたのかも知れない」。
 あの手術も、この1年もきっと無駄ではなかった。ジャンプ台はいつまでも神聖な場所であり、大切な仲間に会えるところ。「落ち込んだときこそ、ここに戻って来よう」。そう思えるようになった。
 ありがとう――。最後はそれしかなかった。仲間や指導者、家族、観客…。お世話になったすべての人に感謝の気持ちをささげながら、國分はスキーを脱いだ。これからは新たな翼を求め、羽ばたいていく。以前より強く大きな翼を求めて――。

◆國分哉伸 こくぶんちかのぶ 飯山北高出 168cm・60kg
 神奈川県出身の國分がジャンプを始めたのは、長野に転校した小学校3年の時。インカレのジャンプ団体戦には1年次から出場し、3連覇すべてに貢献。4年目は手術のため欠場した。ほかにも、全日本学生スキー連盟04強化B指定選手、第60回国民体育大会冬季大会(成年A)―第7位など、多くの活躍を見せてきた。